後付けコンセプト 大歓迎!

生徒からよく質問を受ける言葉に
「そんなことしたら、コンセプトが“後付け“にならないですか?」
というものがあります。
つまり、本来、物が造られる時には、コンセプトがあってのカタチなのに、カタチからコンセプトが出てくるのは逆でおかしい!、と。

コンセプト(考えたこと)とカタチ(できた形)・・・
両者の関係は、多々、誤解されていることが部分あるように思うので、改めてここで記載します。

すなわち、頻繁に勘違いされているような
「コンセプト(考えたこと)あってのカタチ(できた形)」
「コンセプトをカタチにする」
すなわち
「コンセプト → カタチ」
という順番についての誤謬です。

「後付けコンセプト」という否定的な言葉も、こういう入門時にありがちな誤解から生じます。
本当のところは、物が造られる時、コンセプトなんて「後付け」であっても一向に構わない(条件付き、ですが)のです。
この真意を説明します。


上のような勘違いは、
「まず頭の中にモヤモヤしたコンセプトが発生してきて、次にそれがカタチになる」
という
原因 ---- コンセプト(=頭)
結果 ---- カタチ (=手)

「原因 → 結果」
という、あまりにわかりやす過ぎる常識に由来しているからなのだと考えられます。

だから皆、まず最初に頭を動かして「コンセプト」を産み出すことからスタートしたがり、その後でそれを「カタチ」にすることを考えようとします。



結論から言ってしまえば、
物造りでは、「コンセプトとカタチ、このいずれからスタートしてもよい」
ということです。

前記の言い方を借りれば、
「カタチあってのコンセプト」
「カタチをコンセプトにする」
という逆転した順番でも一向に構わない、ということを意味しています。

もうすこし言えば、創作の中では、このふたつ(コンセプトとカタチ)はいつも互いにキャッチボールするようにしながら進められなければならない、ということにもなります。
「コンセプトとカタチ」、言葉を変えれば「頭と手」は、あなたが創作をしているあいだ中ずっと、この両極の間で行き来や会話が成され、そういう互いのキャッチボールの中で、その姿形を時間経過と共に、順次、変えてゆくものでなくてはならないのです。
この瞬間、コンセプトとカタチは「不思議な共振」をし始めます。

これこそが、「生きた物造り」ということになります。
決して、「一方通行」だけではいけない。特に「言葉 → 形」という一方通行では・・・・。



こういうことを殊更に口に出して言うのには理由があって、僕は大学の時分、やはり
「最初はコンセプトからだ!」
と、相当強く考えていたからです。

というより、実状はそんな生やさしいものではなく、
「自分の着想し得たコンセプトから出てくるカタチには、たったひとつの完璧な解答しか無い筈だ」
とか
「この敷地から導かれる建築の解答はたったひとつしかない筈だ」

とさえ、過激な信じ方をしていました。
どちらかというと、その頃の僕の考えは、建築を数学のように論理的に厳密に解いてゆきたい、というものでした。
その為には、ちょっと難しい言葉にはなりますが、記号論とか構造主義的空間というものにもひどく惹かれました。

当時、僕にとって、自分の頭・思考・言葉・思想といったものだけが唯一純粋なもので、それを少しでも汚すようなカタチには、殆ど興味を抱くことができないでいました。
オーバーに言えば、言葉の世界、論理の世界、純粋なロジックの世界だけが、自分のたったひとつの頼り得る事象であった訳です。
わからないなりにも、考えること(哲学)が好きだったこと故の姿勢でした。


ところが当然のことながら、そんなふうにしていつも決まって自分が拠り所にしていた「コンセプト」というものは、それが「カタチ」に翻訳される瞬間、決まってその「カタチ」というものに裏切られ続けることになりました。
決して、「コンセプト」は、そのまま「カタチ」に透明に移行され翻訳されることなんてなかったのです。

「どうして自分のコンセプトは、カタチに翻訳される際に変形を余儀なくされるのだろう?」
これにはとことん手を焼きました。
この2つの事象の乖離を埋めるべく、敷地にヒントを求めようとしたり、床/壁/天井という建築物のシステムについて考えようとしたり、構造主義・現象学にヒントを求めようとしたり・・・・・。
でもどれも、多少の助けにはなるものの、あまりうまく行くものでもありませんでした。


そこで思ったのは、
「確かにコンセプト(言葉)は変わってしまうかもしれないが、出てきたこのカタチ(建築の空間)じたいは、悪くない・・・・・・
だったら、それに見合うようにコンセプト(言葉)を少しだけ変形してしまってもよいのではないか・・・・」
でした。

最初は恐る恐るの及び腰ではありましたが、折角、得ることのできた純粋なコンセプト(言葉)を、そこで少しだけ変形・修正してみました。


ところがどっこい、驚いたことに!
このコンセプト(言葉)の変形という強行突破を実施してみると、その「変形されたコンセプト(論理)」に引っ張られ、次の段階として「カタチ」の方も自然と変形されて来るようになったのです。
そしてこの「カタチ」が・・・・、それまで自分でも想像だにしていなかったような、予想以上の「カタチ」(建築空間)に変貌してくれたという訳です。
そして、そして、更に、この「カタチの変形」が再々度、またまたエキサイティングな「コンセプト(言葉)の変形」を引き起こしました。

これこそが、先に「不思議な共振」と僕が書いたところの意味です。



この状態は、自分の少量の脳味噌から出てくるしかなかった限界ある造り方から脱出し、自分でさえ思い付かなかった方法で物を造ることのできる領域へ、無理なくスーッっと移ってしまうことができた感さえありました。
こうして、「コンセプトとカタチ」の間には、「キャッチボール」や「共振」、すなわち「運動」と呼ばれてしかるべき力学のあることに気付いたのです。

こうして、「コンセプトとカタチはどっちが先?」なんてことではなくなり、そのいずれもがいつも共振し、常に姿を変え変更され続けてゆく運動のプロセスに興味を持つようになりました。


頼るのは、「コンセプト」だけではなく、「カタチ」だけでもなかったのです。
そうではなくて、その両者の「間」にある、目に見えない手に取れない「運動」こそ、自分の依って建つ場所だったという訳です。
この「運動」なるものこそに、「己を越え出るひとつの契機」があるようにも思えました。


世の中でもし天才と呼ばれる人達がいるとすれば、彼らの性質のひとつに、「己の越え方を会得している」というものがあるのではないかと予想します。
人間には、いつもちっぽけな能力しかありませんが、その小さな己を何か他者なるものに託すことができ、それによってそこから創造のヒントを手に入れることができたなら・・・・。
その時には、もうその人は、その人自身を越えてしまっているのです。
その人は、その人から遠くにあるものを、ある方法にてその人の近くにまで持ってこさせることができるのです。
創造という地点では、もはやその人であってその人ではない。

時に耳にする「啓示を受けたような瞬間」とか「ブレークした瞬間」というのも、実はこういう流れの中での出来事なのではないかと思います。


こうした「託し方」には幾つかの方法があります。
ここのブログやHPのESSAYで述べているような「自然」・「誤解」・「ルール」等々、まだまだ沢山あります。
しかし、どれも「偶然性」という言葉と無縁ではありません。

人は自分の脳でコントロール可能、把握可能なものの中で、日々生きています。でも、創造者というのは、その敷居を越えて、コントロール不能な領域に入っていかねばならないのです。
この「アンコントローラブル」であることが「偶然性」でもあります。



学生の時、こういう流れの一旦を感じた中で、
「物を造るってこういうことを言うのかもしれない・・・」
とその時初めて思いました。
「造る」とは「自分で造る」ことではなかったのです。
極端に言えば、「己を殺す」ことでもあったのです。

ただ当時の段階では、まだまだそれは頭の中での理解に過ぎませんでした。
ただ「わかった」だけだったに過ぎなかったのです。

そして当然のことながら、未だにそれを「知る」ことはできていません。




ここに、「ヴィトゲンシュタイン」という映画からの一節を引用します。
「ヴィトゲンシュタイン」とは、オーストリア生まれの論理学者であって、若い頃は、世界の一切を言葉・論理でパーフェクトに記述し尽くそうというガチガチの欲望に占領されていましたが、晩年はそこからシフトすることで、世界に関しての新しい眼差しを持ち得た人です。

*****************************************

世界をひとつの論理にしようとした若者がいた

頭のいい彼はその夢を実現し 一歩下がって出来映えを見た

それは 美しかった

不完全も不確実なものもない世界

地平線まで続くきらめく氷原

若者は自分の世界を探検することにした

踏み出した彼は仰向きになって倒れた

摩擦を忘れていたのだ

氷はツルツルで汚れもなかった

だから 歩けない

若者はそこに座り込んで涙にくれた

でも年をとるにつれて彼にはわかってきた

ザラザラは欠点でなくて 世界を動かすものだと

彼は踊りたくなった

*****************************************

「ツルツルの氷」 と 「ザラザラの摩擦」
「座る」 と 「踊る」
わかりますよね?
これこそが、コンセプトとカタチ、頭と手、原因と結果、に他なりません。




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また、20世紀初頭の(非)芸術家であったマルセル=デュシャンは、その生涯最大の作品「大ガラス」の制作にあたって、「グリーンボックス」という作品を「対」として添付しました。
「大ガラス」と「グリーンボックス」は、「ペア」で鑑賞されるようにできている、ということです。
「グリーンボックス」という作品は、簡単に言えば「大ガラス」の注釈書になります。
この場合、「グリーンボックス」(写真左)が「コンセプト」であり、「大ガラス」(写真右)が「カタチ」ということになります。
作品が作品を説明する。


しかし、デュシャンにとってのこの2つの作品の関係は、そんな簡単なものでなかったことは明らかです。
マルセル=デュシャンという人は、今でも尚、まだまだ解明され尽くされることがない、というか、永遠に解明され続けるような人ですから、彼の生涯最大の作品がそう簡単にひとつの言葉に還元されてしまい理解されてしまう方がおかしいのです。
その証拠に、批評家の解釈は千差万別です。

ただ、この「大ガラス」と「グリーンボックス」が、互いに補完的な関係にあったことだけは間違いありません。
「補完的な関係」とは、キャッチボールであり、共振であり、互いが互いを包み合う関係であり、部分と全体が交代する関係とも言えます。
これらいずれもが「運動」です。

それは、デュシャンという人が何よりも古典的な芸術概念、古典的な芸術家の振る舞い、古典的な芸術の在り方を嫌悪しており、それを壊そうとし続けてきた人であったことに由来しています。







さて、丁度、この文章を書いている最中、法政大学の木下元君が設計課題の内容チェックに事務所にやってきました。
下が本当の発端になったコンセプト模型

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そこで、彼が迷っていたことを例に挙げて、少し説明してみます。
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最初、木下君は、上のような「脳神経細胞(ニューロン)」からイメージの着想を得ました。
これは、脳内コミュニケーションの方法が、「論理性」や「部分と全体」という機械的システムを越えたところでやりとりが成されている点に注目し、この建築空間(コンピューターのショールーム)でのコミュニケーションに於いても、そこから何かを引っ張り出すことができるのではないか、と考えたところから出発しました。
コンピューターという電子装置と脳内システムの相似性にその基を置いた、ということにななります。
結果、最初期のフォルムは、ニューロンからそのデザインモチーフを引用し、このクネクネしたフォルムの空気の中に、従来の【機械】的な空間システムではない、もっと【意識】に訴えかけるような風景を想定していました。


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ところがその後、実際の模型の「カタチ」を観察するにつけ、「脳細胞(ニューロン)」より、心臓の「動脈・静脈」(上写真)に似ていることにも興味を抱き、そちらの方へ関心が移って行きました。
ここでは、心臓の「動脈・静脈」が、血液を「出し入れ」することに、その機能があることから、建築空間の質を決定しようとしたのです。
それは、「建築から都市への排出」、「都市から建築への吸入」という貫流システムとして扱われます。
こうなった時点で、最初のコンセプトであった「ニューロン」は、一旦、外されたこととなります。


さて、ここでの変化を振り返ってみますと

=「脳神経細胞(ニューロン)」をコンセプトにしていたとすれば、この建築空間の質を決定する指針は
→「建築と建築」のコミュニケーション

となり

=「動脈・静脈」をコンセプトにすれば、この建築空間の質を決定する指針は
→「都市と建築」のコミュニケーション

ということになります。
これらのうちいずれかを最終的に採用するかは、スケッチを重ねるうち、2つのうちいずれが建築の質としてより有効であるか?の判断に依って来るでしょう。


スタート時の着想は、「建築と建築のコミュニケーション」でしたが、これがずっと最後まで遵守される必要もありません。
それが「動脈・静脈」になった時、「都市と建築のコミュニケーション」へと移ったのであれば、「それもまたよし」ということです。

「どっちも有り」ということです。




そして、この流れで言えば、
彼が、そのコンセプトを後から出てきた「動脈・静脈」に決定した場合、一般に言う
「後付けコンセプト」
になってしまうということです。
でも、この「後付けコンセプト」に、どれだけの非難される部分があるでしょうか?

この例は、非常に簡単でわかり易いものではありますが、「コンセプトとカタチ」の「運動」という概念が、とても身近なこととして納得していただけるのではないかと思います。






さて、僕の大学の時代の話に少し戻ります。

「コンセプトとカタチ」の間の「運動」という視点に気付いたら、学生であった僕には、どんな分野に於いても「両極間の運動」が大切に見え始めてきました。


例えば、わかりやすい、人の「内面」と「外見」にしても

それまで、
「自分の頭が決まってから行動」
「自分の内面を確立してから外見」
と頑なに思っていたものが、「内面」を変えるのと同時に「外見」をも変えてみよう!
と考えるようになりました。
「内面」と「外見」も両極ですから。


人よりずっと頭の出来の悪い僕は、その頃ずっと「知的な人になりたいものだ・・・」と憧れを抱きつつ思っていました。
だから、それまでのロックンローラーの服装を、キリッと見えるものに変えてみました。
本棚にもしっかりと本の背表紙が見えるよう、美しく積んでみました。
スケッチブックも、気に入った品よいデザインのもので統一しました。
スポーツを始める時も、技術の習得という「内面」よりも真っ先に、「まずは道具(外見)」というふうに。


これらはどれも、「カタチから入る」ということです。
その道の先輩達からは、「道具なんてうまくなってからでいい!」と罵声を浴びせられながらも、気持としては、
「いやいや、内面と外見は絶対にキャッチボールする筈」
だったという訳です。


ただ、誰でもそうでしょうが、そんな老成した綺麗ごとのアドバイスよりなにより
「まずはカタチから!」
の方が、てっとり早くないですか?
なにより格好よくないですか?
僕はそういうのは、決して不純とは思いません・・・

僕は何をやるにせよ、
「まずは動く それが吉と出るか凶と出るかは 運次第」
というのが好きです。

頭であれこれネチネチ考えあぐねていて、結局、辛抱が続かないうちに断ち消えになってしまった・・・・・・というより、どんな方向でもいいからまずは動いてみたい!
そういう欲求の方が遙かに強かった、と言えます。
停滞したり悩んだりして一向に腰を上げようとしない場面に辛抱しているのは、とてもシンドイことです。



だから今となっては、コンセプト(頭)にがんじがらめになって、「ああでもないこうでもない」と湿気を帯びて悩んでいる生徒達を見ると、
「早くカタチ(手)を作ったらどうでっか?」
という言葉がまず出て来るのだと思います。
ただ一方で、カタチだけにムキになっている者を見ると、
「早くコンセプト(頭)の筋を通さないとアカンで!」
になるのですが・・・。

まあ、いずれにせよ自身の学生時代を振り返ってみると、無責任といいますかいい加減といいますか・・・・・・・




僕自身は、頭でっかちだった学生の時には「頭」で突っ走り、 その後、頭と手の「運動」となればそっちで突っ走る・・・・・。
こんなふうですからもしかしたら、数年後にまた新しい納得できる方法に出会えたら、その時はまたそれを信じて突っ走るのでしょう・・・・・。




ただひとつ思うことは、「コンセプトとカタチ」「頭と手」「原因と結果」「内面と外形」「内部と外部」等といった「2つの間の矛盾」を前にした時

「この矛盾にどう“橋渡し”をしたらよいのだろう?」

と考えることこそが、実は一番「創造的」なのではないか、ということです。

ここでの“橋渡し”とは、「論理」や「ロジック」というような簡単なものではありません。
その2つの事象の区別を産み出すような何かであり、その2つが「そこから出てくる何か※」のことです。

※上記に関しての詳細は、ESSAY参照
http://www5a.biglobe.ne.jp/~norisada/%91O%93c%8BI%92%E5%83A%83g%83%8A%83GTOP/ESSEY/essay05.html%8B%F3%82%C9%82%C2%82%A2%82%C4

このような行為にこそ「創造的な眼差し」ともいうべき何かが潜んでいるのだと信じています。




これは、建築的な知識でも技術でもマニュアルでもない何かです。
建築の創造の芯にあるものとは、そういった「知識」などではなく

「人間としての態度であり、人間としての姿勢であり、人間としての生き様」

に他なりません。




それを欠いてしまった建築に、永遠に魂など宿ることなどありません。



こういうものは、「建築」ではなく「ビルディング」と呼ばれるのです。



                                    前田紀貞

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