強いもの/弱いもの

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日本の建築界ではこのところずっと、「弱い建築」が注目を浴びています。
「軽い建築」「透明な建築」などはそれの仲間です。
こうしたものが出てくる背景は、建築の分野だけでなく、音楽や文学、アートや車など、その他、今の社会的背景からも影響があります。情熱の充満した暑苦しく重量感ある男性的なものより、涼しげで軽やか、スマートで女性的なもの。

建築だけで言えば、「プログラム論」や「表層(皮膜)建築」、「非作家的手法」など、おおまかに皆この範疇に当てはまるものばかりです。
巷では、古来の「能」とか「禅」、現代の「アニメ文化」や「情報技術」など、「力」という言葉を連想させない肩に力の入らないたたずまいを引き合いに出しながら、「この“軽やかさ”や“弱さ”こそが日本的だ」「“重量感”や“強さ”を標榜するのは欧米へのコンプレックスだ」というような論調すらあります。
石造建築の欧米は「強いもの」を標榜するが、木造建築の日本は「弱いもの」を標榜する、というような。

ただ、「日本の軽やかさ」VS「欧米の重量感」といった「二項対立」こそが、形而上学的欧米人に接した時、どこかで目線を上にしてしまう日本人のトラウマかもしれませんし、「弱いものにこそ強さがある」という物わかりが良いような逆転された論法も、この「二項対立」を反転させて眺められたに過ぎません。
そこに気付かれないといけないのです。
実はこの一見もっともらしい視点こそが、建築を志し始めたウブな人達、或いは冷静さを失ったオジサン建築家が陥る最初の「落とし穴」に他なりません。

どのような分野に於いても、そこで「弱さ」を主張する時、他者に簡単に侵害されてしまうような程の「弱さ」まで希望する者はいないでしょう。その証拠に、「弱い建築」を口にする人達も例外なく、その真意は「反転された強さ」を希望しているからです。「弱いものこそ強いのだ」という、ただし書きが常にそこには伴います。
皆、何かしらの意味で、その深層では「強い」ことを望んでいることには変わりありません。
ただ、その表現方法というレベルで、敢えて「“弱いもの”で対処しようとしている」だけなのです。
ガンジーの「非暴力」だって、最終的には「それが一番良い(強い)方法だ」という視点があるからに他なりません。

単に、「弱さ」という言葉の雰囲気、その表面の「花」の部分だけをなぞっていたのでは、永遠にその「根」が顔を出してくることはありません。ましてや、「弱いこと・軽やかなことこそが強いのだ」というような、エセ知識人が好みそうな逆転の発想に簡単に扇動されてしまうような姿勢にこそ、問題があるのではないでしょうか。

結論から言いますと、僕はこの「強い/弱い」のいずれか「一方だけ」に属することこそが、最も好ましくないものと考えています。
「弱い」極だけでは不充分です。「強い」極だけでも正しくありません。
それよりも、この「両極を行き来する眼差し」こそ、日本古来からのオリジナルではないか、と思う訳です。

こういうふうに考えてくると、ひとりの建築家の作品に「弱いもの」もあれば「強いもの」もある方が無理なく自然なのではないでしょうか。いや、そうならない方が、何かがどこかで歪んでいるとさえ思います。

大切なのは、結果として目に見えてくる「強さ/弱さ」でなく、そういった区別を発生させてくる「システム」について問いかけることなのです。
※この「システム」という言葉は、ちょっと漠然としていますが、少しの間記憶しておいてください

日本には桂離宮という軽く・弱いものもあれば、東照宮という重たく・強いものもあります。或いは、能という「簡素」なものもあれば、歌舞伎という「過剰」なものもあります。もっと言えば、農耕に代表されるような計画的で穏やかな植物的日本もあれば、漁業に代表されるような刹那的で強腕な動物的日本もあります。
これらの両極は、軽さと重さ、光と影、陰と陽、内と外、表と裏、太陽と月、王道と覇道、男と女、・・・・・等、色々な言い方で言い換えることが可能です。

欧米の文化(形而上学)は比較的わかりやすく、彼らがこれらの「両極の選択」に面した時、「どちらか一方が正しく、他方は間違い」と割り切ればそれで済んでしまうのです。
でも、日本の古来の思想からすると、そう簡単には決着が付かないところが我々の文化の深いところです。
それが、前に述べた「システム」という言葉の意味です。
日本の伝統を理解するには、物事の両極(軽さ/重さ)の区別を発生させてきた「ナニカ」という「システム」なるものを理解しなければ、永遠にその雰囲気をなぞっているに留まってしまいます。

わかりやすく言えば、「新しい世界」を誕生させる建築家、或いは、その道のエキスパートというのは、軽やかな桂離宮「側」の作り手でもなければ、重量感ある東照宮「側」の作り手でもない。そうではなくて、時によってそれを選択し分けてきた「システム」を自分の中に内包している、そういうレベルの人であることが大切だ、ということになります。
こういうことを体現しつつ誕生してきたものは、時には強く見え、時には弱く見えることもあるのです。

重/軽、光/影、陰/陽、内/外、表/裏、太陽/月、王道/覇道、男/女、・・・・・・
こういった二項対立は一言で言えば、「有と無」という両極に代表させられます。
「重/軽」ならば、重さが「有る」/重さが「無い」というふうに。


先程の、日本人が大切にしてきた「システム」というものは、この「両極のいずれか一方」を選択することなのではなく、更には「その両極の中間」ということとも違います。
「システム」とは、「両極という反対事項の区別を発生させるべく、その両極の根にあるナニカ」に他なりません。

わかりやすい例で言えば、「システム」とは「男の子・的」でも「女の子・的」でもありません。そういう「どちらか一方の極」ではないという意味です。
ある家族に「男」が生まれたからといって「人間というのは男なのだ」、逆に「女」が生まれたからといって「人間というのは女なのだ」、というのはナンセンスだというのと同じです。
そこで「人間」というものについて思いを巡らしたいのであれば、その「男の子」「女の子」という対極事象を発生させた「親」に遡る、或いは対極の区別を発生させた「生殖という行為」に遡る、ということこそが大切なのです。そういうことです。
そして、ここでの「親」或いは「生殖行為」というものこそが、ズバリ、日本古来からある「空(クウ)」という思想であり、別の言い方では「システム」ということに他なりません。「空」の思想は仏教から来ています。

欧米は「リンゴ」を見た時、「それは赤で“有る”」/「それは赤で“無い”」と、どっちかの側で明確に物を言いたがります。それが、形而上学の使命だったのですから。
でも、その「はっきりとした物言い」に私達がつられてしまうことは危険です。我々のいる「世界」というものは、そんな簡単にYES/NOの言葉で割り切れてしまうような類のものではない筈ですから。もっと矛盾に満ちているのが、僕たちの住んでいる世界です。


「空」は、「有と無」の「無」という言葉と一見混同されがちですが、実はその正体は「有」でもなければ「無」でもありません。
「空」とは「有」と「無」という両極を発生させてくる「根」という「システム」です。これこそが、日本の伝統概念であり、形而上学で来た欧米には類を見ない思考です。
これが、一見して誤解されたりすると、欧米からは「YES/NOが言えない」、となってしまう訳でして・・・・・。

「空」とは、対立する両極のどちらか一方に片寄ることなく、その「区別を発生させるナニカ」というような漠然とした理解で今のところはよいと思います。
※この「空」に関しての詳細は、ホームページのESSAYを参考にしてください。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~norisada/%91O%93c%8BI%92%E5%83A%83g%83%8A%83GTOP/ESSEY/essay05.html%8B%F3%82%C9%82%C2%82%A2%82%C4

もう一度繰り返しますが、本来の日本の伝統というのは、「能」という軽く禁欲的なものや、「歌舞伎」という重たく過剰なものの「いずれか一方だけ」に代表されるものではありません。それを雰囲気だけで「能」という片極だけをすくいあげて、「これこそが日本です」というような方法は全体を見据えた思考だとは言えません。
それよりも、そういう相対する・相容れない両極・矛盾を発生させてきた「システム」にこそ、僕たちの祖先が長い間、思いを巡らしてきた真髄があるのです。

「弱いものこそ日本的」という発言は「“無”こそ日本」或いは「“有”こそ欧米」というふうに僕には聞こえます。でも、それは明らかに何か「片手落ち」なところがあって、いつかは「“空”こそ日本」とならない限り、ずっと日本人は自分達のことで勘違いを続けるのではないでしょうか。

「軽い建築」が流行しているからと言って、根拠なく思考することなく雰囲気だけでそれだけにしがみつく態度には問題があります。
それよりも、「軽い建築/重い建築」という区別が発生してきた「親」とか「誕生のシステム」について問い続けること、これこそが今、行われなければならないことなのです。

利口で成れず
馬鹿でも成れず
中途半端で尚成れず

僕が大切に感じている言葉ですが、この「非ず非ず」(全否定)の論理の中にこそ、何か教えがあるのかもしれません。



最後に。
それでも僕は、こういうことすべてを了解したうえで、「それでも(この状況では)男だ」/「それでも(この状況では)女だ」と主張することが、決して忘れられてはいけないことだと思います。
これは、単に批判無しに最初から「男だ」「女だ」というだけの視点とは全くその質が違います。

「それでも」と「この状況では」ということが入っている分だけ。

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