前田紀貞の建築家ブログ

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zoom RSS 「アルゴリズム建築って嫌いですか? -2」

<<   作成日時 : 2014/10/26 12:12   >>

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前回の
「アルゴリズム建築って嫌いですか? -1」
http://norisada.at.webry.info/201410/article_1.html

に続いて、その2回目です。



■設計図がある VS 設計図が無い

前回は創作というものの基本が

=自分で創ること(自律的方法)
=自分で創らないこと(他律的方法)


の両極を併せ持つことであることを論じました。

これは、
= 計画的 方法(必然的方法)
=非計画的 方法(偶然的方法)


というふうにもいえます。


違う言い方をすれば、
=設計図がある
=設計図が無い


の両者を併せ持つことです。


前回の通り、欧米の世界観は
=「自分」が創った設計図がある

から導かれますが、東洋では反対に、

=「自分」が創った設計図が無いこと

を尊ぼうとします。



ところが
自然とは、この極点のいずれもを内包するもの、
欧米論理からしたら矛盾した“摂理”という流れのなかから生成してくるものである、

となります。


ですから、
「アルゴリズム建築」を正確に理解するには、

=設計図があっての創作

=設計図を描くことができない創作

の両方について検討し承知する必要があります。




今回まずは、
=設計図のあるアルゴリズムパターン
の話、


そして次回に
=設計図を描くことができないアルゴリズムパターン
が控えます。

これらをどう同時に、自分の創作のなかに同席させることができるか。
要はそこです。



では早速、最初の
=設計図があっての創作
から。



■設計図を持つ自然

建築の空間や形状、そしてその質の決定は「設計図」によります。
これは、ヒトがDNAという「設計図」によって設計され、結果、それが形になっているのと理屈としては一緒です。
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有機生命体の「設計図」であるDNAは、
A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)という4種類の塩基の【数】と【組み合わせの順番】というだけの、
大変にシンプルな「ルール」によってできています。

上図は、DNAの概念図ですが、これを見ても、絵の中にはA・G・C・Tという4種類の塩基しか書かれておらず、
それらの【数と順番】だけによって、生命体の「設計図」が書かれていることは一目瞭然でしょう。


わかりやすく言えば、たとえDNAが「A・G・C・T」という4種類の塩基からできていたとしても、

・ACGATCGGTACCGTGTCGAATCTCTAG



・CCGATCGTAGGGTACCGTGTCCGTGTC

では、その【数】も【順番】も違います。

この“違い”によって、有機生命体の種類が決定されてゆくことになります。

御存知のように、その情報のヒトとの違いは、
バナナで50%程度、
チンパンジーで2%程度、
ヒトどうしの個人差では0.1%程度、

と言われています。

このA・G・C・Tの配列の【数と順番】(=設計図)によって、
結果としての生命体の姿は、ヒトにもシマウマにもニワトリにもゴキブリにもバナナにもなってゆく訳です。


生命体のあまりにもの複雑多種が これだけシンプルなルールで……、と驚きます。



■新しい建築の「設計図」

僕達が「アルゴリズム建築」を標榜するひとつの大きな根拠として、
この「設計図」という概念があります。

ただ、同じ「設計図」であっても、
=かたや「建築」
=かたや「自然」



なるものを結果します。


そして、その両者にある秩序の様を見てみれば、
やはりどうしても「自然には勝てない……」と、すべての建築家は思う訳です。


そうです、自然があれだけ複雑な表情や奥深い秩序を見せるにもかかわらず、
そこにはこれだけシンプルなルールしか無いこと。
そのことが不思議であり、畏敬の念で接する理由にもなります。


であれば、生命の「設計図」と同じように、
建築でもとてもシンプルな「ルール」によって空間の秩序を誕生させることはできないだろうか?

これが、僕達が“未来の建築”を「アルゴリズム」によって提案してみたい根となります。

それは、今迄より遙かにシンプルなルールで、建築の新しい秩序を作り出したい、という欲望といってもいいものです。


そう考える背景には、

建築が誕生の根拠(ルール)もなしに気まぐれで誕生させられてしまうのでなく、
ある「ルール」に基づいた「設計図」によって計画されたものとして、
祝福され誕生させられることで、その世界に立ち会えるようにしてやりたい


という考えがあります。


建築が誕生してくる際、
そこに大きな自然の摂理にも似た「ルール」が 建築を誕生させている有様、
そんなロマンにも似たものです。


実はこれこそが、ペーパーレスのコンピューターによって接近可能になると僕たちは大真面目に信じています。



■複雑な自然現象のシミュレーション

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例えば、「煙」の立ち上る姿という自然現象はとても複雑なものです。

あの瞬時、瞬時瞬時に変化してゆく あまりに複雑で捉えどころのないフォルムのデザインを決定しているものは何なのでしょう?
あんな複雑な空間やかたち・空間に、どうしたら建築家は近づくことができるのか?

今までの近代建築の系譜では、もし「煙」をモチーフとして使うのであれば、それはせいぜい「煙っぽいかたち」をデザインすることに留まっていました。
“煙のかたちを真似る”ということです。
こうした例でよくあるのは、海や湖の近くに建築を計画する場合、
「ウネウネした“水っぽいかたち”でデザインしてみました……」というやり方です。



しかし、これから述べるような方法は、それらとは一線を画しています。

つまり、「現実の自然現象の中で、「煙」というものがどのように生成してくるのか?」という、
自然界での生の誕生のシステム、その「動的な秩序」を解明し、そしてそれを建築空間の生成へ導こうという方法です。

それこそが、コンピューターのなかの「アルゴリズミックなプロセス」によって可能になるものです。



■Processingの「煙」

ところで、「煙」という自然を相手にするには、
その「煙」が「小さな煙の粒子の集まり」であると分解して考えるところから始まります。


そしてその「粒子」の大きさ、数、お互いの粘り気、空気の温度や風向、重力……、
そういった沢山の要素の、決定されなければいけない周囲の環境状況(数値)をしっかりと決めてやって初めて、
結果として、その環境のなかでの振る舞いが合算されたものとして、あの複雑な形(煙)が目に見えてくることとなります。



ちなみに、それらをコンピューター上でプログラムして、粒子ごとの挙動を決定しそれを視覚化したものが、
以下のURLの動画で見られます。
http://processing.org/learning/topics/smokeparticlesystem.html

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この動画を現わすのに必要なプログラムは、前回述べた「Processing」というコンピューター言語によって書かれたものです。

それは、コンピューター上で「煙」が誕生してくるシステム・過程を計算し再現前させたもの、
すなわち、このプログラムこそが「煙の設計図」ということになります。
このプログラムこそ、コンピューター言語によって記述されたアルゴリズム、そしてそれが「設計図」というものになる訳です。


見ておわかりの通り、これらは、“煙っぽいかたち”を雰囲気で真似るのではなく、
「煙」という現象を解剖学的に分解して行くことで、そのひとつひとつの要素が持っている性格を、
コンピューター上で数値的に決めていってやる、という手順によって誕生する秩序です。

言ってみればそれは、「見た目の煙の形」ではなく、
「煙の形を作り出している摂理(ダイナミックシステム)、別の言い方では、煙が動的に変化してゆく秩序(動的秩序)の関数を設定し、それを計算して「煙」という現象を表出させていることといえます。


これこそが、
煙を作り出している自然の背後に潜む「ルール」、と考える訳です。

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「煙」のような複雑な事象を分析できる、ということは、
「炎」や「鳥の群れの動き」といった系でも、同じことが可能ということになります。

そしてそこから、もっと複雑な自然現象や有機生命体の「ルール」へ向かおうとします。



■設計とはコンピューター言語を書くことである

こうしたことは、あまりに大胆な宣言のように聞こえるかもしれませんが、
そう遠くない将来、必ずこうした操作が普通に建築の世界で行われる時が来ると思っています。
だからこそ、前回のように
「最後の建築ができない世代」
という言い方をするのです。


いずれにせよ、こうしてコンピューター言語による「煙の設計図」が書かれることによって、
「煙」というものの背後に隠された ある誕生過程とその結果としての最終的なかたちが正確に記述されるようになります。

ここでの「煙の設計図」なるものを具体的にお見せしますと、以下、合計123行に渡る「コンピューター言語」となります。

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これこそが、「煙の設計図」と言ってもよいものです。

それは、コンピューター上でのシミュレーションによってのみ再生可能な、「もうひとつのリアル」です。
たった123行のコンピューター言語によるプログラムという「ルール」設定。
これだけで、あれだけ複雑だと思われていた自然(煙)の姿を近似的に再現することが可能となります。

ここではもう、「煙」は“雰囲気としての形”ではなく、自然のリアルな煙に限りなく近づくものとして捉えられます。


僕達が接近したいのは、こうした自然の摂理の記述なのです。
それを「設計図」と呼んでみたいのです。

そして、その「設計図」を書くには、Processingを始めとするアルゴリズムを記述するコンピューター言語が不可欠となります。



繰り返しになりますが、建築とは「(空間の)秩序を創り出すこと」に他なりません。

であれば、その「秩序」なるものが、「既存の建築秩序」だけから引用されているようでは、
新たに生まれ出る世界観には限りがある
というものです。

だからこそ僕たちは、建築の新しい秩序を、敢えて「建築的分野」から遠いところにあるもの、
すなわち「自然」から引用し翻訳してみたいと考えます




どうやっても勝てる気のしない自然、「誰が設計したの?」と言われるような自然
そうしたものへの畏敬の念とそこから謙虚に学ぼうとする姿勢が整ったとき、
自然は建築空間生成のエンジンとして手を貸してくれるようになる筈です。

というか、古典建築の時代にもてはやされた「黄金比」などは、実は自然のなかにある比例体系から引用されたものであったことを忘れてはいけません。やっていることはさほど変わりはありません。


こうした試行錯誤や新しい試みに挑戦するなかで、建築には今迄とは全く違った顔付きが現われてくるであろう、
そう、僕たちは確信するところです。



ただこれらの方法は、(CGなどで)「建築空間をコンピューターによってシミュレートしてみる」
という程度のことなのではなく、
「建築空間の発生が自然法則によって構想される」、という「摂理」の扱いに近いものです。

自然や有機生命体が発生してくるのと同じような過程を通して、
建築も誕生させてやりたい

ということになります。



■自然とはコンピューターの中にある

こうしてみると、
「建築の設計をする」という作業は、いずれそう遠くない将来に、
「コンピューター言語を書く」ということと無縁ではいられなくなる、

このことも間違いでないことになります。

恐らく、今後の建築家としての空間・デザイン発想の才能は、
「コンピューター言語を書く能力」とパラレルになってくる筈です。

近い将来、この能力が不得意な人たちは、
初期段階(スケッチ)での「発想」は、凡庸な経験と習慣にまみれた、“手癖”だけによる“どんぐりの背較べ”、すなわち、どこの 誰にでもできるような凡庸なものになってしまう危険があります。

ですから、真正面から建築文化を先に進めてゆきたいと覚悟する建築家を志そうというのであれば、
人としての鍛錬、設計技術や施工、法規や英語や思想・芸術の勉強をしたりするのと同じように、
「コンピューター言語を記述する方法」を習得することが不可欠となります。

これが、「未来の建築」へのひとつの重要な準備となることでしょう。



“建築を設計するという行為”は今後、
頭の中にイメージされた空間を紙の上にトレースすることから、
「コンピューターによってプログラムされた自然の摂理が紡ぎ出す、設計者自身にも予想不能な偶然に己を委ねる作業」
へシフトしていくでありましょう。
それをそのまま、「自然に己を委ねる」と理解してしまっても間違いありません。


過去の西洋の建築家たちが、黄金比(自然の各所に見られる不思議な比率)をずっと大切にしてきたことは、既に述べた通りです。
或いは、日本の職人たちは、尺寸による寸法体系(カネワリ)、或いは、素材というものの持つ性質の声(他者の声)に謙虚に従おうとしてきました。

正に、芭蕉の「松のことは松に習え」です。

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これらいずれも、自分の拙いエゴ(自我)というものを殺し、自分というものを何か“より大きなもの”に委ね開いてみようという姿勢に他なりません。

言い換えれば、自分の制作意図なんぞを遙か超え出たものを、他者へ求めるという謙虚な姿勢ともいえます。
こんなものこそが、自分(自律)ではなく他者が作ってくれる、という意味で「他律」の創りかたと言います。
それを、あるアルゴリズミックな手法の中から導き出そうとするのです。
自然のなかにある摂理(アルゴリズム)という(動的な)「設計図」から設計者自身でも予測不能な「他律の創作」を導こうとするのです。



プログラミングを介しての(自然の)アルゴリズムへの接近とは、
実は、その本質の部分では、これまでの「他律の方法」と何かが特別に変わる訳ではありません。

いずれも、他者としての“摂理”へ身を委ねる訳ですから、
「自分では創らない」という無我の眼差しであることには変わりありません。

それは、先に参照した茶碗とも、書道とも、柔道とも、アナロジーとしては基本同じシステムです。
だからこそ、「アルゴリズムとは古(いにしえ)からある」と申し上げた訳です。

ただ、“表層の見え方”といった次元では「全く別物である」と思われるかもしれません。



ひとつ見逃してはならないこととは、
今までの錆び付いて意固地な考えに拘泥してしまい、本来目の前にある新しいビジョンの価値をみすみす見逃してしまうことでの損害です。
どんなものでも、初めは見たことなく珍しく見えてしまうものです。だからこそ、その新奇性だけが目立ってしまうものなのです。
その表向きの誤解に臆してはいけません。



もうひとつ。

建築のアルゴリズミックなプロセスのなかでは、
できるだけ自然の摂理に近いものに接近しようとしますが、そこで高速度の計算機だからこそ腕を振るうことのできる理由についての理解です。


それは、
自然がその進化過程で自然淘汰されてきた、悠久の時間の中での試行錯誤プロセスを、
超高速度計算機がトレースする、

という考えです。

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言い換えれば、
超高速度計算とは進化である
という事実です。


それは、「神としての芸術」「霊性としての芸術」のようなものから、
自然をもっと身近で日常的なものとして、何とか芸術の側近くに引き寄せられないだろうか、という試行錯誤と言うこともできます。
創作がある特別な才能を持った、目利きの人たちだけの手にしか入らなかったものが、
実はもっと門戸を開いて、誰にでも手にできるようにされたとき、今迄の自律だけの創作法が如何に痩せていたか、ということがわかってくるかもしれません。


例として、
以下の画像は、こうした方向のなかで設計された建築、すなわち「自然の摂理から引用された秩序」を建築化したものです。

前田紀貞建築塾に在籍の大学1年生(戸村陽)の作品です。戸村は3ヶ月前まで高校生であった訳で、特段の建築技術があった訳でないことは承知の通りです!!

この作品は「ビスマス結晶」というものが持つ、結晶生成の摂理をアルゴリズミックパターンの中で翻訳し、建築化したものです。

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さあ、この大学一年生の作品にあなたたちは勝つことができるでしょうか?? (^_^;)

だからこそ言うのです。
「自分の経験とか手癖という“自律”でなく、自然の摂理という“他律”へ委ねてみましょう」
と。

そうすれば、勝手に摂理の方で創ってくれるのですから。
これほそ楽なことはありませんね。


他にも枚挙にいとまはありません。

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■ Processing

ちなみに、自然の現象を表象するようにプログラミングする際、
アルゴリズミックデザインを行う人たちが頻繁に使用しているビジュアルデザインのためのプログラミング言語 (Processing)を紹介しておきます。

最初にも話をしましたが、実はこのコンピューター言語は、今の時代の小学生なら誰でもがすぐに習得できるものです。

僕の主宰している前田紀貞建築塾の「アルゴリズム建築コース」でも、週1回1時間半の講義でその習得にかかる時間は約3ヶ月です。しかも、何もコンピューターのプログラミングを知らない人で、という条件つきで。


芸術は、もっともっと身近で日常的なものになってゆく筈です。

四角くて上品そうな建物を作っている限り、それが批判されることは少ないものですが、
実は、そうした“慣習”に捕らわれてしまっている批評精神を欠いた設計方法というものこそが、実は、
建築原理主義やデザイン原理主義といった「建築の権威」に従ってしまっている様ではないでしょうか。

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僕たちは、住まい手が住まう自由な建築というものは、もっともっとそうした権威や約束事や既成概念から自由にならないといけないと考えます。

そうした未来の可能性に無批判であることは、みすみす、自分を「鳥籠」に入れてしまっているようなものといえます。
鳥籠の中にいれば、いつだって餌をもらうことはできますが、籠の中の目が何を見ているかといえば、自由に大空を飛び回る「自由な鳥」に他なりません。




かつて僕達は、建築という道を示してもらえる師というものを持ちました。
そうした人たちが僕たち後進へ、自身の危険をも顧みず、次の時代の建築のビジョンを勇気をもって開いてくれました。
そのことを忘れてはいけません。

でも、そうした先達たちが先導してくれていたのは、
他ならぬ「近代建築」であったことも事実です。
残念ながら、「近代建築」に関しての呈示は既に終わっています。



では、今、僕たちは次の世代の為に何ができるのでしょうか?
だからこそ「アルゴリズム建築」ということになります。


先代から大切ないただきものをした自分たちが、その財産(近代建築)を食い潰しているだけでは決して褒められたことではないでしょう。
そうではなくて、自分たちも、次の時代の人たちが前へ進めるフィールドを用意できるよう傷付くことです。

「アルゴリズム建築」は成功することが約束されている訳ではありません。
それどころか、今の段階では、ただのビジョンでしか無いかもしれません。

でも、だからこそそこに賭けてみたい、そういう気持ちが尊いのです。




現在、教育機関で建築を勉強している若者たちこそが、
「“古いタイプの建築教育”を受けてしまった最後の世代」
ということにもなるのかもしれない、というそのこと。


そこには、“将来、絶望を感じる人たち”と“未来に希望を手にする人たち”の分かれ目があります。
絶望はできるだけ少なくしたいと願います。


そんなこんなを考えますと、
今回記載しているような「アルゴリズム建築」への無知、無批判は、とても恐ろしいことだと思うようになってきます。

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10年経って、今の小学生が大学建築学科に入学してきた時、最も後から抜かされやすいのは、現在、大学などの教育機関で教育を受けている者、そして建築を実務として始めていても そうしたことに無関心である人たちだということです。
このことは、何度でも言うことが必要でしょう。


ただ、最後にそれでもひとつだけ付け加えておきたいことは、
“それでも残る作家性(霊性)”
なるものについて、これはこれで今迄通り全く要であることに変わりありません。
これは誤解しないでいただきたいと思います。

「(手癖 or アルゴリズム)どちらか」ではありません。「どちらも」なのです。


今までの「製図室的ビジョン」に更に磨きをかけ、
そして同時に「アルゴリズムのビジョン」なるものが開いてくれるかもしれない“新しい境地”に無垢に開かれることです。

「製図室的ビジョン」は、一見、今迄の古(いにしえ)を大切にしているように見えますが、
それが「それだけ」になってしまったときそれは、ただの保守に転落するしか道はありません。





これについては、このブログの「アルゴリズム建築と作家性」のページを参照していただければ理解していただけると思います。
http://norisada.at.webry.info/200803/article_1.html



ということで今回は終わりになりますが、
次回の「アルゴリズム建築って嫌いですか? -3」は、

自然というものは設計図だけではできないものである

についての話です。



実はここが、通常の設計図によって構想される世界とは一線を画す、とても不思議で魅力的な部分であります。

どうかお楽しみに v(^_^)v





建築家 前田紀貞

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】

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