前田紀貞の建築家ブログ

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zoom RSS 建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No4

<<   作成日時 : 2013/03/22 21:56   >>

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さて、
建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 
のシリーズは、No1〜No3の執筆後、少し時間が空いてしまいましたが再び再開です。

■建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No1
http://norisada.at.webry.info/201010/article_2.html
■建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No2
http://norisada.at.webry.info/201012/article_1.html
■建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No3
http://norisada.at.webry.info/201012/article_2.html

今回は「テトラレンマ」からスタートします。
これは、古代インドの仏教僧:龍樹(ナーガルジュナ)が考案した「世界を観る方法」です。
普通、僕達は西洋の「論理」を通して世界を観ることを常としていますが、この「テトラレンマ」はそれとは全く違った、より深い世界の観方を呈示します。
一言で言えば、「テトラレンマ」とは世界を観る「知性」(intelligence)でなく「叡智」(sophia)ということになります。
この旧き深き洞察の論理を知れば、僕たちが教わった戦後教育の「論理」など、あまりに付け焼き刃でお手軽過ぎることがわかるかと思います。


■テトラレンマ
画像


















龍樹によるこの奇妙な名前の論理は、世界の中の「X」という事象を記述しようとする際、
「以下の四項:【@+A+B+C】を同時に満足するもの」
として捉えようとします。

@:X= A
Aである
  
A:X= 非A
Aでない
  
B:X= A 且つ 非 A
Aであり・Aでない
  
C:X= 非A 且つ 非非A
Aでなく・Aでないことはない

※上の「@・A・B・C」は、この後、頻繁に使いますからよく覚えておいてください。

例えば、「X」=「建築と都市の関係」とします。するとそれは

@:連続的である
A:連続的でない
B:連続的 且つ 連続的でない
C:連続的でなく 且つ 連続的でないことはない

「これら【@+A+B+C】の4つの命題を同時に満足するもの」
となります。

お手軽な西洋論理(intelligence)に慣れてしまった頭には、もはやこの奇妙な手順はお手上げではないでしょうか?しかしながら、この「理解し難さ」こそ、西洋論理(intelligence)の限界を示す何よりの証拠であります。
この「テトラレンマ」は、言うまでもなく二千年程前の東洋(インド)の叡智(sophia)ですが、この地点へ、未だに西洋の知は追いつくことができないでいる、ということを僕は今回示したいと思います。そして、この素晴らしい「世界の観方」を、是非とも、あなたたちのこれからに生かしていただきたいのです。僕には、これほど素晴らしい「世界の観方」が、一般には殆ど知られていないことが不思議でなりません。
ちなみにこの「テトラレンマ」は、西洋の「論理」に対して、東洋の「非論理」と呼ばれます。「非論理」とは「無論理」ではありません。「西洋論理とは違った、もうひとつの論理」を意味します。「否定の論理(非)」とも言われるものです。

■論理と非論理
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※ここから以下の「@ABC」は、先の「テトラレンマ」の命題「@ABC」を示します。

ここで明記しておくことがあります。
「非論理」(テトラレンマ)は「@ABC」すべてを満足することが必要ですが、
「論理」(西洋)は「@のみ」「Aのみ」で事足りてしまいます。

「論理」(西洋)について先の例でいえば、
@:「建築と都市」は連続的だ(X=A)
或いは、それに意義を唱えるアドルフ=ロースの様な場合、
A:「建築と都市」は連続的でない(X=非A)
これら主張は反対ですが、いずれも「世界」の在り方を「Xは○○である」と「断定」「決定」していることでは同じです。
「@だけ・Aだけ」は「解を求める」という西洋の方法です。

上の絵でいえば、
「Xは○○である」というのは、この左右どちらかに振り子のおもりを固定させることです。「@だけ」なら「左だけ」に、「Aだけ」なら「右だけ」にと。それはすなわち「静止した状況」に過ぎません。

ここが「テトラレンマ」との大きな違いです。
一方、「非論理」(東洋)とは、振り子でいえば「左右にいつも振れている状態」をいいます。決して「左だけ/右だけ」と断定し「解を求める」様に静止させてしまわぬこと。
これは、
テトラレンマB:「A 且つ 非 A」
の命題が示すように、(都市と建築は)「連続的 同時に 連続的でない」といった命題が示すところです。「矛盾の同居」ともいえます。そこでは、「且つ」が「振動」を保証しています。
「振り子」が「@のみ/Aのみ」では「静止画」にしかなりませんが、そこに「@ & A」の「且つ」の視点が入ってくれば、それはゆっくりと振動を開始し「動画」として録画されるようになります。「固体」が溶けて「液体」になるイメージです。これこそ、万物が流転するこの【世界のありのまま】といえます。


これを、東洋思想(テトラレンマ)の側から言わせてもらえれば、本来「世界」を見る「叡智」の方法が
=【@+A+B+C】すべてを「且つ」として同時に満たすこと
であったにも関わらず、「知性」ではそのうちの
=「@だけ/Aだけ」の状態
しか採用しなかったということになります。
「矛盾」を「且つ」で同居させることが「世界」の本質であるにも関わらず……。

■大河ドラマの全編/総集編
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東洋の「叡智」で大切な「テトラレンマ:B・C」についての詳細は後述しますが、【@+A+B+C】の【世界のありのまま】とは、大河ドラマでいえばさしずめ、全放送日分の「全編」を見る【ストーリーのありのまま】です。一方、「@だけ/Aだけ」の「知性」とは「総集編」の様なものです。それは、一部がカットされてしまった「世界の一部分」しか観ていないことになります。「総集編」は手っ取り早くわかりやすいかもしれませんが、世界は充分な栄養をもらえず痩せたまま不完全です。

更に、「知性」の不充分さは、放映されるフィルムの分量だけの問題ではありません。先にも述べた「静止画に過ぎない」という限界です。
世界は、昨日と今日、冬と春、幼少・成人・老年と、といつも振り子が振られ変化していますから、これを記述するには【動画】が向いていることは論を待ちません。それを「且つ」を入れない【静止画】で、ある一瞬だけを切り取って終わりにしようという方に無理があるというものです。
テトラレンマに
【@+A+B+C】を同時に見ること
という奇妙な注意書きが付いているのも、時々刻々、無常に移り変わる「世界」が【静止画】でなく【動画】でしか記録できない、そのことへの龍樹の思いといえます。

今、「未来の建築」を前にして僕が大切にしたいことは、
「創造に於ける【@+A+B+C】の眼差し」
これらをすべて漏れなく準備することにあります。
これこそが、「@だけ/Aだけ」の「論理」では 決して到達できなかった“動的な生成”を開示してくれることになるからです。

建築とは世界を生成させることです。でありますから、「@だけ/Aだけ」の手法によって【世界のありのまま】を省略したり抽象化したりすることをせず、まずは【@+A+B+C】すべてを、矛盾も含め受け入れる眼差しが必要だということになります。

繰り返しになりますが、これが
=「テトラレンマ:B」の「A 且つ 非A」
の構えです。「矛盾」や「対極」も含めすべて迎え入れる度量、これこそが「知性」(西洋)ならぬ「叡智」(東洋)というものなのです。



ちなみに、「論理」による「単一の命題」(@のみ/Aのみ)をここで幾つか挙げてみます。

・建築は都市と連続的であるべきだ
・庭とは外部にあるものだ
・日本の文化とは軽やかなものだ

メディアで頻繁に耳にするいかにもそれらしいこれらの命題、それらいずれもが、東洋の「叡智」からすれば、青臭いお話となってしまいます。
この程度の聞きかじりで凡庸に創作に関わろうとしてしまうのは、
「知性」(Intelligence)の狭い鳥籠の中に閉じこめられていることに気付かないか、或いは、矛盾と格闘する必要のない安全地帯で「建築」をペットみたいに愛玩していただけのことであって、【世界・建築のありのまま】に命がけで触れようとする気迫とは甚だ遠いことになります。
僕が申し上げたいことは、「未来の建築」を本気で前にするなら、もっと違った「思考のマナー」を身に付けなければならない、ということです。それが今回のお話です。
これから建築を志す人たちには、この思考のマナーを是非とも身につけておいていただきたいと切望します。その為に格闘をしていただきたいのです。

「建築」とは西洋で産まれた概念ですが、今の日本の建築教育もその西洋のお行儀で成されてきました。だからこそ、「未来の建築」がオリジナルな質を持つには、いつまでも西洋建築のメソッド(論理性・二元論・還元主義)に土下座することをせず、我々の身に則した「オリジナル」に思い馳せるべきです。そのひとつが、この「非論理」であり「テトラレンマ」の方法です。
間違わないでいただきたく言っておきますが、このことを早々に「和風建築」や「木の味わい」や「わび さび」などといった直截で考えてはいけません。あくまで、ロジックの方法ということで考えるのです。

■西洋の土俵で相撲をとるな
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ここでひとつ気を付けなければならないことがあります。それは、今回の様な話し方をすると

「東洋思想が良い」
を、そのまま早々に
「西洋思想が悪い」
と短絡的に結びつけてしまう人がいる、ということです。こういう(東洋 vs 西洋の)「背比べ」の思考回路に陥りそうになったら要注意です。

これこそが正に、今批判してきた「知性」の落とし穴だからです。
「東洋 > 西洋」とか「東洋 < 西洋」という「背比べ」をしている限り、所詮それは振り子の極(東洋・西洋)があべこべになるだけで、たかがそれは「論理」のお家芸である「YES or NO」の二元論(あれかこれか)の土俵で相撲を取らされているに過ぎません。
もし、本当にこの「東洋の叡智」に己を委ねようとしてみるなら、他人(西洋)の土俵で相撲を取らされない術を採用するのです。

ということで、試しに「建築と東洋の関係」について「テトラレンマ」に検証してもらいます。

「建築」とは、
@:東洋的である
A:東洋的でない
B:東洋的であり 且つ 東洋的でない
C:東洋的でなく 且つ 東洋的でないことはない
以上、この四つの命題すべてを満足するもの、それが「建築と東洋の関係」というものである


泣いても笑っても、これが「叡智」から導かれる「建築と東洋の関係」に他なりません。
一応、正確さを期すために付け加えておきますと、この四命題は「(建築と東洋の関係)とは何か?」ではなく「(建築と東洋の関係)とは如何にして表出可能か?」の記述です。知性(intelligence)は「WHAT」を求めますが、叡智(sophia)は「HOW」に沿うようにします。

もう少し言えば、
西洋の知性(intelligence)は世界に解答(真理)があることを前提にそれを求める論理ですが、東洋の叡智(sophia)とは【世界のありのまま】の働きをそのままなぞろうとします。これを数学でいえば、大切なことは「(最終的な)解を求めること」でなく、「終わりなく式が変換されてゆくプロセスそのものを記述すること」になります。
この「非論理」の問いのシステムじたいが【世界のありのまま】そのものであるということです。


はあ、、、、東洋というのは厄介です。分かりやすさからいえば、西洋の方がずっと分かりやすいです。
でも、僕たち東洋人が、西洋の「分かりやすさ」だけを優先していては、我々のオリジナルとしての資質はどこかへ行ってしまいます。

■批判されるべき「クールジャパン」
ところで、昨今の「クールジャパン」に見られるような、
「日本は、はかなく軽やかな文化である」
という、日本の本質というものの「解を求めた」ような宣言、これは、前章の流れからすれば、明らかに「論理」の眼差しです。
一見、日本人が日本のことを定義し得たように見えても、その定義の方法が「論理」に基づいている限り、所詮、西洋の土俵の上で相撲を取っていることに他なりません。僕は、こういう“ありがちな雰囲気言葉”で、あたかも「日本なるもの」を語ったかのように思ってしまうエセ知識人に重大な罪があると思っています。
それは、「日本」でなく「西洋」を語っているに過ぎません。日本人が日本について考察するのであれば、「知性」でなく「叡智」を採用しないといけません。「論理」でなく「非論理」を採用しないと、窮屈な鳥籠から出ることはできないのです。

いまひとつは、上の「軽やかではかなき日本」という言説は、「重厚感ある西洋文化へのアンチ」として捉えられますが、実は、この“アンチ”という考え方こそ、「YES or NO」の西洋(二項対立)であることを知るべきです。
(雰囲気全開の)「はかなき日本」なる言葉で、自国の特質を表現したと決め込んでいたつもりが、実はその“感想文”の根にある文法は西洋にあったという間違いです。
どうかこのことにどうか気付いてください。

少なくとも、知識人と称する以上、この類いの愚を絶対に犯してはいけません。東洋の「非論理」である「一如」や「不二」という「非二元論」、これら我々の先達の「叡智」を忘れるべきではありません。
あくまで片極に寄って静止してしまった宣言では世界を固定させてしまうだけです。振り子は「右だけ/左だけ」ではなく、いつも「左 且つ 右」と、両極という矛盾を含んで振動し続けていなければなりません。

■【@+A+B+C】の全編コース
今こそ僕たちは、「未来の建築」を

=「分別された建築」(@だけ/Aだけ)…intelligence
から
=「一如なる建築」(@+A+B+C) ………sophia

に戻してやるが為に、「B・C」の苦い味も味わってみようではありませんか。そんなこと考えたことすら無かったのであれば、今日から実践してみればいい、それで充分です。
※「分別」と「一如」については「一章」参照
http://bit.ly/duRrSi


ただし、「B+C」をも思考の武器にしようとすると、西洋の「知性」は、「矛盾」という「証拠」を持ち出してきて、それに「有罪」の判決を下すことでしょう。事実、各種メディアに出回っている概念の殆どが、この裁判で“有罪にならぬよう留意している”とすら思えてしまいます。
でありますからこそ今、僕たちの側に「冷静な裁判官になること」が求められます。未成熟な「知性」の(論理の)裁判官たちは、未だ 鳥籠の中で生きる法律しか知らないからそう判決を下すだけであって、なにも「叡智」を持った(非論理の)裁判官までもがそのミスジャッジを真似る必要はありません。「矛盾とは有罪の証拠にはならい」ことを知らしめなければなりません。


さてそろそろこのへんで、西洋が掬い取ることのできなかった、「テトラレンマ」に残された奇妙な「B」・「C」とはどのようなものかへ進みます。この「非論理」の命題がわからなければ、今回の章の意味はありません。

■「山は山でない」とはどんな意味?
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中国の禅僧である青原惟信(せいげんいしん)が、「禅の修行過程の三段階」を言葉にした有名な言葉があります。

見山 是山
見山 不是山
見山 祇是山


というものです。意味は以下です。

(第一弾):未だ禅に参じなかったとき、 山は山であった
(第二弾):のち入処がありそのとき、  山は山でなかった
(第三弾):休歇の処を得てみると、   依然として山はただ山であった

より平易にして
(第一弾):修行していない時、“山はただ山だった”
(第二弾):修行してしばらくしたら、“山は山でなかった”
(第三弾):更に修行を続け悟りの境地に至ってみれば、“やはり山は山だった”

禅僧の「悟りの三段階」は、このようになっているということですが、これを「建築の三段階」とみてもいい訳ですし、「人生の三段階」と解釈してもらってもいい訳です。
そこで、この「修行の三段階」と「テトラレンマ」を照らし合わせてみます。すると、この両者には同じような構造があって、これが僕たちに建築や人生と付き合う方法を教えてくれることがわかります。


○ 第一段階:「山は山である」
これは、「テトラレンマ:@/A」の
「X=A」
にあたります。
→「山は山である」。これ以上でも以下でもない“ベタな段階”です。
禅の修行は、この凡夫の視力からスタートします。

○ 第二段階:「山は山でない」
これは、「テトラレンマ:B」の
「X=A 且つ 非 A」
にあたります。
「それは山であり 且つ 山でない」という境地です。
さあやっと、「且つ」が出てきました。
この境地に立つことのできた禅僧は、「山は山としてあることはあるのだが、私にとってそれは“今まで見ていた山”とは全く違ってある」となります。

「修行につれて、山が山でなくなってしまう」とは、

=「元の純粋な山」(第一段階)

=「ヘンテコリンな山」(第二段階)

になってしまうのではありません。その逆です。

=「総集編の山・静止画の山」(第一段階)

=「全編の山・動画の山」に戻った(第二段階)

という眼差し(sophia)を意味します。
「第一段階」から「第二段階」へ修行が進むにつれ、「@のみ/Aのみ」の山が「@+A+B+C」の山として見えてきたことになります。

これは、「当初の凡夫として“世界を観る目”こそが曇っていた」ということを示し、ここまでの修行で「それを取り戻した」ことになります。
人は、この世界に誕生したばかりの時分、誰もが「世界」を目映いばかりのキラキラした「物そのもの」として見ることができました。「コップは水を飲む為の道具」でなく「コップそのもの」としてそこにありました。「水たまり」や「ウサギの毛」や「赤信号」も同様です。ところが時経るうちに、「物そのもの」は「記号」として観られるように痩せてしまいます。それが「曇った目」の意味です。
「山は山でない」の意味するところとは、この“無垢な世界観の回復”“世界に纏わり付いていた泥の除去”というものとなります。
※「芸術ってなに?存在ってなに?」参照
http://bit.ly/11cqukZ


ただ、そこにはいまひとつ意味するところがあります。
それは、このシリーズ:第一回目の「分子の玉」を思い出していただくと理解が容易です。
そうです、分子レベルから見れば、この世界はC・H・O・Nの分子が順繰りに引っ越しを続けている様でした。
「山」とは、一時的に C・H・O・Nの分子が集合した結果としての確固たる【山】であったとしても それは明日になれば、その土の水分が蒸発してしまうことで、C・H・O・Nは、次は【霧】を構成する役目に変わり、更に数時間後には【雲】となり、続けて【雨】を経て【ホウレンソウ】に変化し、最終的にそれを食した【私】に姿形を変えてゆきます。
この「常無らぬ様」(無常)こそが「世界の原理原則」(摂理)でありました。C・H・O・Nの分子は、いつも無常の世界の中、新たな住処を探しながら、転々と引っ越しをしその度に姿形を変えていただけでした。仮の姿で住処を転々としているだけということ。
凡夫の頃に「不動の【山】」と見えていたものは、たまたまその瞬間【山】であっただけで、偶然 一時的な分子の引っ越し途中に【山】を構成していたに過ぎなかったということ。でも、山は【山】であり、且つ【雨】であり、且つ【ホウレンソウ】であり、且つ【私】であってしまう。
世界とは、「昨日と今日」「今日と明日」が「且つ」で重層しています。「生と死」「光と闇」「白と黒」「現実と虚構」というふうに。

だから「山は山であるが、同時に山でない」となります。これが「山は山でない:テトラレンマB」の「縁起する世界」からのイメージです。

■空じる
こうして「(悟りの)第二段階」に至ったことで、「個物としての山」は「一如としての山」に戻されることになりました。
ちなみに、禅ではこの“元に戻すこと”を「空じる」といいます。
「空じる」ことは「テトラレンマ」では「B」という武器が追加で装備されたことになります。
「山が空じられた」ということは、“曇った目”に映っていた「山」、その周りに付着していた泥が取り去られるイメージです。無論、山だけでなく世界のすべてが空じられることで、世界は原初の【世界のありのまま】を取り戻します。

修行を経ることで、世界から“泥(固着した堅さ)”が取り除かれ、当初の堅く凝り固まった世界が、しなやかな流体として見られるようになれば、二元論・決定論で「あれかこれか」という「intelligence」の鳥籠に閉じこめられていた鳥は、「sophia」として自由に大空を飛び回ることができるようになります。「静止画」は動きを取り戻し「動画」になり、
=ハサミで分別されバラバラになっていた世界 (分別智)  
【山】≠【雲】≠【ホウレンソウ】≠【私】

=一枚布の世界 (無分別智)
【山】=【雲】=【ホウレンソウ】=【私】
として縫合されてゆきます。井の中の蛙が大海へ泳ぎ出ることを許された様なものです。
「〜でなければならない」のコリがほぐされ、「あるがままに」のしなやかさが徐々に取り戻されてきます。
いずれにせよ、「“論理”のマインドコントロール」から逃れ、僕たちが本来持っていた「非論理」が息を吹き返すことになります。
これぞ「空じる」ことの極意です。

■「依然として山はただ山であった」とは?
さて、「テトラレンマ:B」を会得しようとする修行によって、「山は山でない」と立派に世界を観ることができるようになったのですから、もはやこれで充分ではないでしょうか?何故まだこの先にもうひとつ
「C:依然として山は山である」
という最終章があるのでしょう。
そこが、禅という生き様の徹底して謙虚なところです。その説明に入ります。


○ 第三段階:「依然として山は山である」

「テトラレンマ:C」とは、
非A 且つ 非非A
でした。

まずは、このヘンテコな式
非A 且つ 非非A

数学の多項式のように“非”で括ってみます。すると、
非A 且つ 非非A = 非(A 且つ 非A)
となります。これは、
C=非B
ということですから、驚くべきことに、
「テトラレンマ:C」は「テトラレンマ:B」の「否定」であった
ことを知ります。
先に、
Bは「山は山でない」という「否定」でしたから、Cは「否定の否定」ということになります。
「否定の否定」、ここからCを紐解くことができます。

改めて整理し直しますと、
=「テトラレンマ:@/A」は【肯定】
=「テトラレンマ:B」は【否定】
=「テトラレンマ:C」は【二重否定】
となります。


さて、修行僧は「山は山である」という初学の段階から「(悟りの)第二段階」を通じて、「山は山でない」という「否定」の境地に至りました。
ここまでに至り付く修行は並大抵のことではなかった筈です。でありますから、「山は山でない、これぞ世界の真理である」と確信することでしょう。

でも、ここでちょっと待った! です。
もし修行僧がそう思ってしまったなら、その瞬間 禅というものは終わりを告げてしまいます。

思い起こしてみてください。
そもそもは、西洋の「@・A」の示すところの
=「Xとは○○である」
という“真理を求める論理”を空じようとしていたにも関わらず、もしここで修行僧が上の様に「確信」するとしたら、
=「世界の真理とは“否定”である」
となってしまうです。これではまるで西洋風に「解を求める」論理・定義そのものではないですか。断定し定義し、世界を再び固体に戻してしまっているではないですか。それでは、ミイラ取りがミイラになってしまいます。

すなわち、ここで最も大切なことは、「修行の成果を“ドグマ”にしてしまってはいけない」ということです。「“否定”の術を知った」という思い上がりで、「俺は悟ったのだ……」という唯一絶対の解答へ至り付いたという思い込みをしてはいけないのです。そんなことをすれば、再び、世界は鳥籠に閉じ込められてしまいます。


「世界を空じた」ことは確かに立派でしたが、本当に大切なのは「その空じることすら 空じてしまうこと」。「否定の否定」、これこそが、
「依然として山は山である」の意味するところであり、最後の命題「テトラレンマ:C」となります。
こうして、永遠に世界や固定されることなく、移ろい続けることになります。「否定の否定」、すなわち「絶対否定」となります。
ちなみに、「テトラレンマ」と似た方法として、「非ず非ず」という世界認識がありますが、これは「Xとは○に非ず、□に非ず、△に非ず、、、、、」と永遠に非ずによって否定を続ける方法です。永遠に縁起する無常の世界の構図、「テトラレンマC」はこれと同じ「非論理」なのです。

せっかく手にした成果(山は山でない)で一息つく暇もなく、それどころかせっかくのその成果すらも終わることなく空じるよう修行者に要請してくる。恐ろしくしつこく、且つ、謙虚な方法です。


■「色即是空・空即是色」「身心脱落・脱落身心」
この章も終わりに近づき、最後に「テトラレンマ」と類似する思想との関係について触れてみます。

=般若心経の 「色即是空 空即是色」
=道元禅師の 「身心脱落・脱落身心」
との比較です。
これらも基本的には、前記した「否定」や「否定の否定」についての言です。

まずは般若心経からの引用。
画像












即是即是

まずここで、「色」とは「実体のあるもの」「空」とは「実体のないもの」をさします。
或いは各々、
「山は山である世界」(明在系)「山は山でない世界」(暗在系)
静止画動画
論理非論理
固体流体
個物一如
抽象具象
総集編全編
手に取れる/取れない
目に見える/見えない」でもいいでしょう。
或いは、もっと拡大解釈して「 VS 」は「(世界の)対極事象」を示すシンボルと考えても差し支えありません。「男 vs 女」とか「光 vs 闇」といった。

ここで、これを
=「テトラレンマ:@/A」は【肯定】
=「テトラレンマ:B」は【否定】
=「テトラレンマ:C」は【二重否定】
と類推比較してみます。


最初の【肯定】段階は「山は山である」というベタな認識でしたから、
即是」「即是
という段階です。「実体あるものはある無いものは無い」という普通です。

次の【否定】は「山は山でない」で、
即是
に当たります。この意味するところは、
「我々に「色」(実体的・明在系)と見えている世界(個物・静止画)というものは、実は 一瞬の幻影に過ぎず、それは「空」(非実体・暗在系)に過ぎない。」という観方です。
この世界なんて「たかが 空」といった観方。

そして最後の【二重否定】は「依然として山は山である」で、
即是
に当たります。意味するところは、
「そんな「空」なる非実体の世界は、凡夫から見れば虚無の夢のようなものだが、自分が生きているのは、その夢の中以外にないのであれば、どうせなら開き直って、その夢を「色」として存分に楽しく見てやろう。」という世界認識に当たります。
たかが空の世界を「されど」として前向きに生きるいう思い方です。

※参照:「死を覚悟した瞬間」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~norisada/forarchitects/ESSEY/essay21.html



さて次は、道元 正法眼蔵からの引用。
画像


















身心脱落・脱落身心

ちなみに、
=「心身脱落」とは「身を捨て去る」ことを意味し、
=「脱落心身」(否定の否定)とは、「捨てる身をも捨て去る」を意味します。
こうなるともうわかりますね。

そうです、
「身心脱落」は「色即是空」・・・(否定)
「脱落身心」は「空即是色」・・・(否定の否定)
に当たります。

「身心脱落・脱落身心」、これまた「たかが・されど」でセットです。

そして道元の場合、その後に

脱落脱落

というものがオマケで付いています。
これは「テトラレンマ」でいえば、「【C】を【@】に代入せよ」というコマンドなのだと、僕は理解しています。
もうおわかりでしょうが、無常に移ろい行く「世界」とはこの「否定」を永遠に続けてゆく「運動」を言います。

■ 明在系・暗在系
今回の「テトラレンマ」の結びです。

第3章の「ボームのグリセリン実験」のところで申し上げたことを思い出してください。
この実験の示すところとは、「世界の観方」というものが、

=「抜き出された世界」(明在系)…………「色」の世界

=「たたみ込まれた世界」(暗在系)………「空」の世界

の両方が同時にこの世界に重層していることを知る方法でした。
これは、「Intelligence」(知性)の世界に「Sophia」(叡智)の世界を重ね合わす方法でもあります。

もう少しいえば、修行によって「既に山ではなくなった山」(暗在系の山)。でもそこでは同時に「かつて山だと思っていた山」(明在系の山)が全く消えてしまった訳ではありません。修行者にはそう見えなくなっただけのことであって、他の凡夫には相変わらず、その「明在系の世界」が生きています。
悟った私にとっての「山でない山」だけが世界の「真理」と断定し思い込むことなく、泥の付着した「山は山」も、やはりどうしようもなく有ってしまいます。それも捨てることはしません。

生きることとは、それがたかがフィクションであることを知りつつ、そのフィクションをされどリアルに生きようとすることです。
「たかが・されど」、生きることの極意です。


以上が今回の「テトラレンマ」の示すところの「世界の観方」です。
どうです、西洋論理とは全く根の深さが違いませんか?




建築家 前田紀貞

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】


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