前田紀貞の建築家ブログ

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zoom RSS 体罰には資格がいる

<<   作成日時 : 2013/02/06 17:33   >>

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世間で体罰のことが大きく話題になっています。

僕が小学生の時、いとこの大好きなお兄ちゃんが野球部の練習時の体罰が原因で亡くなりました。凄く悲しくて毎日泣いていました。お兄ちゃんは、いつでも僕たち兄弟がいじめられると守ってくれた 気は優しくて力持ちの男気でした。

ただそんなことがあっても、僕は「体罰は悪だ」という全面的・排他的意見の大合掌には違和感を覚えるのです……。誤解しないでください、僕は同時に「体罰は善だ」と言い切る一方向の過度な意見にも同様な違和感を感じざるを得ないのが正直なところです。


さて、体罰の問題は、「太陽は赤だ」みたいに、素人がお茶の間で気軽に話題にできるほど簡単なものではない、と僕は思っています。
今、世間やメディア総動員で「体罰は悪である」という時流になってしまっているようですが、現在のこの加熱した状況を目にする限り、危険なのは「体罰」それじたいというより、「体罰は悪だ」という文句を一億人横並び、問答無用ですべてのケースに強要してしまおうとするファシズムの方かもしれません。
「悪いことをしたら叱られる」ことすら否定されてしまうほど、体罰全面否定の思惑(おもわく)が行き過ぎてしまった時、果たして「人を育てる」ことへの信義や誠はどのようになってしまうのでしょう……
徒競走に順位を付けることを恐れ、学校の掃除当番は清掃業者に委託することを良しとする様な教えの場とは……

かつての日本人たちは、人間としての質を問う際に「腹」と言いました。
「あの人は腹が座っている」とか「腹ができている」のように。でも、時代が近づくにつれそれは、「胸」になりそして「頭」へと、どんどん身体の「上部」の方へ来てしまうようになりました。
これが意味するところは、人の質が“足元である大地”からどんどん遠ざかり頭脳一辺倒の培養されたサイボーグのようになってしまうという風潮です。
人が人としての道を守るのは「頭」だけでは到底無理なのです。人が子宮の中で誕生してまず最初にできる器官は腹(腸)です。だから胃腸こそ人間の精神面での影響(ストレス)を最も受けやすい器官なのだといえるかと思います。そんなことを思い起こすだけでも、「頭」だけで何かを処理しようとする教育に限界があることは腑に落ちると思えないでしょうか。人が人の道を知るというは、「頭」と「体」その両方で感じることがあって初めてなのです。


今回僕が言いたいことは、(狭い意味での)「頭」だけによって解析され判定された潔癖主義・駆逐主義・頭脳主義(無条件に体罰反対!)が行き過ぎた時のことです。自分たちの思惑(おもわく)に従わない気に入らぬ奴を見つけようものなら、大多数意見の側の皆 総掛かりでコン棒を持って駆逐 排除してしまおうとする集団心理の行動が最後には何を結果するか、です。行き過ぎた嫌煙運動やかつての亀田大毅君に対する日本人総バッシングの時にも同じ異臭を感じ取りました。

そりゃ、自分で深く深く考えた末に少数意見に至るより、「皆さんが悪いと仰っているものは、僕も悪いと思います!」といった安全地帯の正論を口にしている限り、自身の側が批判されることは絶対にありません。或いはもしかしたら、そこで気付かぬうちに自分の正義感が満足させられているのかもしれません。


ひとつ知っておいていただきたいことは、昔からある「生け贄」の概念です。
それは、その共同体全体の秩序を守る為に捧げられる犠牲のことですが、この「生け贄」を想定して皆でそれを集団バッシングすれば、その他の共同体の皆の秩序は崩壊することなく保持されます。わざわざ「善 vs 悪」の対比を作り出して「善」の側の秩序を守ろうとします。「生け贄」とは、社会構造のなかでそういう経緯で必要とされてきた「必要悪」だった、という事実です。
言いたいことは、今 この何ひとつ不自由のない僕たちの幸せな社会秩序(善)が上手に存続する為にも、何かしらの悪(生け贄)が必要とされる、ということです。ナチスが掲げた反ユダヤみたいに仮想敵を設定しようとするのです。これが「生け贄」の役割と構造です。
この流れからすれば、悪が少なくなってきた今の時代、「執拗な悪探し」をしようとする行動は、人間の歴史を振り返ったとき ある意味無理も無い行動なのかもしれません。でも結局それが行き付くところは、その本人すら思いつかぬ「いじめ」になってしまっているという構図です。「(無条件に)体罰は悪だ」という大勢の合掌が結局は「体罰」になってしまうというミイラ取りがミイラになってしまう構図です。
村社会であった日本人特有の村八分だって、そういった、自分ですら気付かぬ多勢に無勢の陰湿さを持っていたのです。



結論から申し上げれば、「体罰には資格がいる」ということです。
これは僕が考案した言葉ではありません。美輪明宏さんがかつて口にしていたことを聞いたことの受け売りに過ぎません。
しかしながら、これこそ体罰の何たるかを言い当てていると思います。

これを自分なりにもう少し解釈してみようと思います。
つまり、“人に触れる諭し”にはそれなりの(人間としての)資格がいる、ということ。それに見合うだけの「筋と情」の修養も積まずにきてしまった人たちが体罰について意見する状況に限って言うならば、
それが否定論者であれ肯定論者であれ、是非とも「体罰は悪」という意見に留めておくことで、僕は大賛成です。
生兵法は大怪我のもとです。



「資格」とは、身体を介した諭しのできる【見切り】の能力のことを言います。
ここでの【見切り】とは、「ある時は体罰反対、ある時は体罰賛成」といった「反対」(白)と「賛成」(黒)が入り混じってしまった風見鶏のようなグレーとは違います。ここがよく誤解される所です。そうではないのです。
状況がこの状況/この相手であるなら、「これだと黒になる」・「これだと白になる」という【判断】(見切り)が的確にできる能力のことであり、その判断で事を進めたとき、それによって相手に重大な損傷を負わせないような眼力のことです。膝小僧擦りむくくらいならいいけれど背骨は絶対に折らないような、ということです。或いは、それが情の域を超していないか、という計量でもあります。

キャッチボールを例にとってみましょう。
キャッチボールとは、いつも“相手ありき”で行われる「互」の遊技ですから、相手が「受け取り可能な位置」目がけて投げてやるものですし、それが、投げる側としての「気遣い」です。互いに「投げ・受け」の「互」が続かなければ、遊技になどなりません。当然ながら、この「互」は教育でとても大切なことです。
ところが、【見切り】のできない人たちは、相手の背丈の倍もある球を平気で投げてみたり、何も無かったかのように相手と反対方向へ球を放ったりするような者と言えます。当然、相手としては「そんな球取れないよ・・・・」ですが、投げた本人は、「そんな“つもり”でなかった・・・」となります。
この「敢えて取りにくいゾーン目がけて投げること」と「取れないゾーンへ投げてしまった」には天と地ほどの差があります。
かといって、簡単に取れる球ばかり投げてやっていたのではその道の上達にはなりません。体罰否定者はこうして「取れない球は投げてはいけない」となるのです。でも反対に、取れない球ばかり投げているようではキャッチボールにすらなりません。この【見切り】が大切です。
「資格」とは、その人が通過してきた人間としての経験の深さ太さ、それによって見えるようになった球筋のコントロールの力量と言ってもいいかと思います。


復唱しますと、あくまで「白」(反対)と「黒」(賛成)を、風見鶏のように混ぜてしまってはいけません。つまり、状況次第で何かに迎合するような態度ではいけません。「黒」か「白」の判定というものは、自分の深い経験に照らし合わせた道筋に照らして、必ず自ずと無理なくいずれかで出てくるものなのです。


今回申し上げたいことの一番は、
そうした【見切り】が成されることなく、言語道断 無条件に「白だけ」とか「黒だけ」という一方的で無批判な判定を下すことが危険だということです。思いつきや多数決や一般論を拠り所にして、一律一様に「白だけが正しい」とか「黒だけが正しい」という様な声高の断定をしてしまうことじたいが危ないのです。個別で複雑な状況下での諭し(教育)の問題を目の前にしながら、如何なる状況でも通用させてしまうような固定されたエゴイスムとして、誰にでも一括り同じように強要してしまうことがよくないのです。
とかく、「無条件に……」とか「とにかく……」という思考は、ファシズム特有のロマン主義用語であることに気付かねばなりません。これらは、ナチズムでもオウム真理教でも使用されていた類いのものです。

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例を示して言うならば、上のような「振り子」を想い浮かべていただけるのが一番です。
振り子のおもりが「左だけ」/「右だけ」に固定させられてしまっていることが宜しくない、ということです。教育の世界観というものは、そのような「固着してしまった状態」にはありません。いつも流転し流れています。一時たりとも常であることはありません。同じく「振り子」もいつも振動しています。これこそが「世界」というものなのです。
では「時には左」/「時には右」の風見鶏はOKでしょうか?いやいやこれまた違います。これも「時には左」/「時には右」という仕方で静止してしまう世界観であることには違いありません。
そうではなくて、僕たちが一番気を遣わなければならない大切な箇所は「振り子の根元」(上の絵の赤※)の部分なのです。この根元で人はオモリから伝わる遠心力の微妙な力を感じつつ、自分で振り具合を調整します。そうして、いつも振動し続けるように配慮します。これが【見切り】です。
「根元」にある手が、触れ具合を調整配慮してやること、そうすることで陰と陽の世界の極はいつも健全に振動しながら動き続けることになります。
陰(反対意見)に固定されそれ以外に盲目になってしまうこともなく、陽(賛成意見)に固定されそうになればそれを逆方向の力で振り戻そうとします。これこそが健全な生きた教育の世界なのです。
でも悲しいことに、僕たちはどうしても意見を「白か黒かのどちらかに固定したくなってしまう」のです。それで、身の回りの問題に対する判断を間違えます。
グレーに混ぜてはいけない、でも「白か黒か」でそれを固定しても世界は見えてくることはありません。


この【見切り】ができる能力こそ、真の意味での人間としての強さであり優しさとなります。
更にそれこそが、人を諭す(教育)という、どうしようもなく困難な事業の底にあるものなのです。




前田紀貞

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