前田紀貞の建築家ブログ

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zoom RSS 建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No3

<<   作成日時 : 2010/12/31 18:40   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 33 / トラックバック 0 / コメント 0

■世界のありのまま
さあ、このへんまで来れば、今回のブログの最初(1/3)に掲げたティク・ナット・ハンの公案
「この白い紙のうえに ぽっかり浮かんだ白い雲が見えますか?」
への答はみえてきたでしょう。

そうです、前回(1/3)の通り、世界は分子の塊のキャッチボールをしながら、【雲】は【雨】になり、【土】になり、【木】になり、【パルプ】になり、
そして・・・・【紙】になります。
そういうことです。

現代人は、【紙】や【雲】を、各々、独立して分別された 互いに無関係の「個物」としてしか眺めることができない「顕在化した世界」だけが世界である、としてきました。
ティク・ナット・ハンは、我々の知性というものが 西洋の還元主義信仰(理性)の基に、世界を固定化してしまいどんどん浅い方向へ向かわせてしまっていることを揶揄し警告しています。そしてその「一瞬の影」(顕在化した世界) と同時に ある「潜在化した世界」へも目を向けることを促します。


ちなみに、西洋論理学のルールの中に「矛盾律」というルールがあります。これは、
=「紙は紙である」

=「紙は紙でない」(→ 紙は雲である)
が同時に成立することはない、という決め事です。論理学では、世界はこのルールによって解明されます。

しかし東洋では、「一如」と「空」の思想によって、これを超えようとしていたことは周知の通りです。つまり、

=「紙は紙である」・・・(明在系)
と同時に
=「紙は紙でない」(→ 紙は雲である)・・・(暗在系)
を受け入れます。

この「と同時に」が、「強=弱」・「YES=NO」・「有=無」ということです。先の「超越論的地平」であり「空」となります。
そして、それを支えているのが、「否定の論理」と言ってよいでしょう。

「紙は紙であり 紙でない」
もう少し言えば、
「紙は紙であり 雲でもある」

そしてその「紙」は、「雨」でもあり「土」でもあり「石ころ」でもある。
確かに、紙は紙として個物として一瞬は存在します。その一瞬の様を静止画として捉えることは可能です。でも紙は永遠に紙であり続けることはできずに、他の様々な事象へ無常に変容してゆきました。
だからこそ、「紙は紙であり」同時に「紙は紙でない」ということになります。正に、「矛盾」であり「否定」です。

同様に、【私】も【あなた】も【建築】も【オートバイ】も【水商売】も、すべてが自己でありながら自己を「否定」してゆくことになります。
そして、どれもが「個物」としてでなく「一枚布」として一緒に連なってゆきます。
この「自分でありながら自分ではない」、「自分とは自分を否定すること」、「どれもが一枚布で同じである」という論理は、西洋理性の論理から言えば「矛盾」であることは述べた通りです。また、その「矛盾」というものの性質も前の通りです。



僕の言うところの「建築道」とは、このような意味に於いて、「すべては建築である」と申します。
【建築】は【建築】だけ、【私】は【私】だけ、【オートバイ】は【オートバイ】だけ、【水商売】は【水商売】だけ・・・という視点では、未だ未熟な個物の世界観で建築を 「たたみ込まれた世界」(暗在系) として扱っているに過ぎません。
「と同時に」という「矛盾」や「否定」が、そこにはありません


今回の真髄に序々に近づいてきています。

■世界の原理原則とは
ボームの実験の示す通り、「時間」とは、隣り合わせの「過去」と「未来」が常に「今」に向かって矢を発射し続ける、その「今」の矢を発する【働き】のことをいいました。
この「今」のことを、鈴木大拙は「即今」(ソッコン)と申します。

「時間」という概念とは、この「今」というものが、いつまでも同じ「今のまま」であり続けることを「否定」して、「今」自身がその「今」を否定して、そこ(今)から外へ出て行こうとする働きのようなものです。
それを【開け】、つまり常に何かに向かって開かれている、と言ってもいいでしょう。或いは、【待つ】、つまり常に何かしらの変容を待つ、という言い方でもいいのです。
「今」とは一瞬一瞬いつも自己否定をしながら、次の「今」に成り代わってゆこうとする、そういう性分なのです。
時間とか空間とは、そういった【働き】のことを言います。それは決して手に取れ 目に見える実体ではなく、あくまで【働き】それじたいなのです。
前述の「意識野」の“有る”と“無い”を誕生させる、空なる【働き】のようななにかです。


この自己否定性は、「私」の細胞の分子たちが、僅か一年間で無常のなか、すべて入れ替わってしまう自己否定性(分子のキャッチボール)と同じイメージで考えていただいて結構です。一如のなか、ひとつの個物が他の個物へ変化(縁起)してゆくように背中を押してくれる【働き】、それと同じようなイメージで。



今の己を否定して、他の何かへ己を新しく開示し続ける【働き】、すなわち縁起すること。
世界の原理原則とは、不変な実体として世界の事象を正確に固定し記述することにあるのではなく、所詮 非実体でしかないその有様、それを永遠に非実体として流れ続けさせる為の【働き】そのことじたいにあるのです。
それは前章の“バケツに入れた水”が永遠に流れ続ける為の「ポンプ」のような【働き】です。
それは空間に関しても時間に関しても同じであります。



ですから、
「世界の原理原則」とは「“真理”などといった確固たる原理原則が無いこと」
に他なりません。
「“原理原則が無い”という“原理原則”」の為には、人間が勝手に原理原則を作ってしまわぬよう注意しながら、少しでも世界が固体になりそうになったらすぐに それを溶解させ液体のままであり続けさせてくれる【働き】。
この【働き】だけが、「原理原則の無さ」を保証してくれることになります。

「有る」だけで固定してもダメです・「無い」だけで固定してもダメです
「白」だけで固定してもダメです・「黒」だけで固定してもダメです
「重い」だけで固定してもダメです・「軽い」だけで固定してもダメです
「光」だけで固定してもダメです・「影」だけで固定してもダメです
「論理」だけで固定してもダメです・「感性」だけで固定してもダメです
「身体」だけで固定してもダメです・「精神」だけで固定してもダメです
「外部」だけで固定してもダメです・「内部」だけで固定してもダメです
「都市」だけで固定してもダメです・「建築」だけで固定してもダメです
「筋道」だけで固定してもダメです・「情」だけで固定してもダメです

そういう二元論のどちらかに狂信的に走ることではなくて、そういった二元論じたいを生み出すような【基底】としての【働き】こそを求めるのです。
何度も言いますが、【基底】とは、“白でもない黒でもない 故の灰色”ではありません。

それが「空」という「超越論的地平」ということになります。仏教では、そのように説明します。

時間であれ空間であれ、「今」・「ここ」がそのまま固定してしまうことを否定し、他の何かへ成り代わることだけが“ありのまま”です。
それは、「己」ですら同じです。

■即非の論理・超己
これを、鈴木大拙は「超己」(ちょうこ)と申します。
論理としては、「即非の論理」と呼ばれているものです。すなわち、「AがAであるのは“A”が“非A”であるからである」という論理です。
無論、これは「理性」からしたら「矛盾」と呼ばれる範疇に入るものです。でももう「矛盾は悪である」などと考え人はいないでしょう。
「超己」では、「私が私であるのは 私が私でないからである」となります。くどいようですが、この「私が私でない」とは、「私」が個物としてあるのではなく常に無常に移ろいゆくこと、すなわち「一如」の移り変わりのイメージです。
何も難しいことはないでしょう。


世界観の要になるので、何度でも繰り返しておきます。
世界(空間+時間)の本質とは、この常に移ろうという「無常」の【働き】、すなわち「空」にこそある。
このことを是非覚えておいてください。

世界とは、縁起を介して 互いに液体のように関わり合い癒着しながら 無常に移ろい続けるからこそ、「言葉」によって「個物」として固定されてしまうことが誤りとなります。世界は不動として固定されるもの(固体・静止画)ではなく、空っぽのままいつでも変化を待っている姿勢(液体・動画)にあるだけです。
人が生きる中でも、地位、名誉、金銭、等というものを個物と捉え、それらが永遠に不変で固定されているに違いない、としてしまうから間違えてしまいます。このように、本来液体のようにいつ何時でも流れ移ろってゆく動画を、固体として静止画にしてしまおうとする態度のことを煩悩と申します。
これが、僕たちには百八もある訳です。



石ころも山も、己を宣伝したり、よく見せようと思ったり、やり過ぎかもしれないと手を緩めたりすることはありません。
ただ、「空」の働きのまま「縁起」のするようにするだけです。それが“ありのまま”ということです。
僕たちが創作する建築では、このことが大きく忘れられてしまっています。いつもそこに「私」の計画が大きく主張し過ぎるのです。「ありのまま」でなく「私の意図」が巨大化してしまっているのです。
結果、自ずと、建築を「固体」のようにしてしまいます。結果、豊かな生の流れが堰き止められてしまいます。


例えヒラヒラした「建築の消去」とか「軽い建築」というふうな“液体の雰囲気”を持つものであれ、その主張が“片方の極”に固定され狂信的になってしまう以上、それは窮屈な「固体」ということになります。
日本の現代の建築の幼児性が、すべてダメであるとは思いません。でも、その幼児性は、幼児性という極だけでは、ただの「お子様仕様」で終わってしまいます。たかだか“建築の戦略”という程度です。
建築とはそれほどお手軽なものではありません。


僕が口やかましく言う態度は、そういった「固定はダメだ」ということであります。「真理へ近づくような原理原則」を持つことを主張しているのではなく、反対に「原理原則を持つな」という原理原則を主張します。

ちなみに、こうした概念は、ボームのずっと以前、鎌倉時代の禅僧である道元が正法眼蔵:「有時の巻」で述べていることですし、或いはその より源流は二千年ほど昔の「般若心経」の中に既にあることを知っていただきたいと思います。

■善=悪
「世界」とはボームのグリセリン実験のように、「分けられる」と同時に「混ぜられる」ことでした。

「明/暗」・「光/影」・「生/死」・「男/女」・「善/悪」・「重/軽」とは、二項対立として分別されているだけのものなのではなく、「分別されること」と「分別されないこと」が同時にこの世界の中で重ね合わせられていることになります。

ニーチェの「善悪の彼岸」とは、善/悪の分別以前の“ありのまま”について言及しています。
「いやいや、それでも《善/悪》に関してくらいは、分けないと・・・」
という考え、これすら「理性」の考えです。


例えば、「善」の道筋である「正義」という言葉も、「絶対的な正義」というものはありません。

世界の警察と言われる米国が常に表に出す言葉が「正義」(justice)です。もし「絶対的な正義」というものがあれば、すべて米国が正しく、すべて中東が間違っていることになります。

源氏物語の時代の不倫は通い婚としての正義となっていましたが、現代の不倫は正義に反する行為として理解されています。「正義」とは、自力・他力(自律・他律)両面からの“説得の筋道”によって、正当性を確保することもあれば、確保できないこともあります。

幾何学でいえば、「平行線は永遠に交わらない」とするのがユークリッド幾何学、「平行線は無限遠点で交わる」とするのがリーマン幾何学、「平行線は無限遠点で発散する」とするのが双曲幾何学です。どれもが互いにまちまちの主張をしていますが、いずれも幾何学として正解なのです。

建築でも、「建築での正しい論理(コンセプト)」というものはありません。
「建築と都市は連続しているべきだ」(今の日本の建築)という論理も「建築と都市は連続していてはいけない」(アドルフ=ロース)という論理も、いずれも 道筋の作り方次第で正義になります。
一番重要なことは、そこに絶対的な正解がある、と思い込み狂信的になる理性に対して距離を置くことのできるまなざしです。
筋道はいずれであっても、そこにある世界観が表出してくる論理の筋道が通っていれば、それは建築として成立する、ということになります。



そんな筋道を考えるとき、「(絶対的に)正しい論理とは何か?」(WHAT)という二元論の正誤、そうした実体としての“真理”を問うてはいけません。
そうではなくて、「正しい論理とは如何にして表出可能か?」(HOW)を問うのです。

「WHAT」とは:
世界はひとつ(静止画)であるとして、そこに「YES/NO」の二元論を以て、唯一の解答という実体(真理)に生でタッチしてしまおう(WHAT)という態度。
→当然ながら、世界は液体ですから生でタッチしたと感じた瞬間(静止画)、それは既に変容してしまっています。つまり、タッチできないということです。

「HOW」とは:
世界は流れゆくもの(動画)として複数の様相を呈すること(矛盾)を認め、それが表出してくる“プロセス”(HOW)を一元論(ありのまま)で示そうとする態度
→タッチ可能な実体が無いので、“タッチするプロセス”(動画)を問うことになります。


ですから、後の「HOW」のプロセスにこそ、その人だけの世界観、新しい筋道、ストーリー、コンセプトが準備される空き地があります。
そしてそこに、あなただけの「新しい世界観」が垣間見えるのであれば、それはいずれも創作芸術として世界を呈示することが可能となります。
その世界観を作り出す創作の筋道(HOW)の強度だけが、あなたの建築の正義を保証します。

■「一元論」でなく「非二元論」
我々の国の先達たちは、世界を「二」に分別してしまうこと(二元論)での弊害、「世界のありのまま」を見失ってしまう危険を充分に承知していました。
故に、自分たちの拠り所を「二」でなく「一」(一如)としました。

ところで、仏教の一元論は何故、「一如」、つまり「一の如し」(一みたいな)と言い、「一」と言い切ってしまわなかったのでしょうか。
実は、東洋の世界観は「一元論」ではなく「非二元論」という記載法の方が正確だ、ということを今になって申し上げます。

西洋が「二」と【断定】することで世界を固定してしまい、結果、掬い取る世界が貧しくなってしまったように、「東洋の一枚布を知ったから、二でなく一だ」すなわち「一が 正解 である」と【断定】してしまっては、結局、二元論と同じ穴のムジナになってしまう、ということになります。
「一を正解とする」ことは、「二を正解とする」と同じく、「 正解 VS 不正解 」という二元論に他なりません。このへんの機微がわからないといけません。
だからこそ、仏教では「一」でなく「一如」と断定を避けボカす訳です。これまた、東洋の深い叡智そのものです。

こうした思考に於ける本来の知性を、あなたたちが建築を考える際、是非心得て欲しいものです。
そうしたものが無いままでいれば、一見、華やかな筋道であるように見えて、実は、その相手の土俵の上で相撲を取らされているに過ぎないことが頻繁にあるからです。
この「断定せぬこと」に、いにしえの東洋の「叡智」が潜んでいます。

こういうことが、ディベート教育・建築論教育が欠落した今の日本建築界の一番に脆弱な点であります。
僕たちがものを考えるとは、そうした厳しい視線を経て初めて可能になるものなのです。ただ考えればいい、というものではありません。考える為の訓練をしなければなりません。

■IntteligenceとSophia
今回の終わりに近づき、「知性」についてお話しします。

「知性」という言葉は、なにも“学校の勉強ができる”といったケチな程度の為に用意されているものではありません。
それは、「深みのある世界の見方」ができることの為にこそ用意されているものです。

ちなみに、お勉強の知性(西洋)を「Intelligence」(知恵)といい、生きることの知性(東洋)を「Sophia」(叡智)と申します。
己の外側の風景を眺めること(理性)を「Intelligence」(知恵)といい、己の内側の風景を感じること(摂理)を「Sophia」(叡智)と申します。

お子様であれば、「Intelligence」の片極だけで済まされますが、かたや「Sophia」の方は、「世界は矛盾である」という深淵なる精神のパースペクティブを受け入れることができないと、成就させられません。
学校を出るくらいまでは、「Intelligence」で済まされるかもしれませんが、社会に出てからの本当の勉強こそが「Sophia」となります。言っておきますが、これらは別個の二元論ではありません。いつも“と同時に”という一如のまなざしが必要です。

ただ、今の日本の建築界の哀れは、「Intelligence」志向であることです。
日本にカミナリ親父が不在になってから、世の中は浅いままであっても誰も文句を言う者がいなくなってしまいました・・・。おべんきょ(Intelligence)だけしていれば、優しいお父さんは怒ることがなくなりました。


本来、如何なる善人の中にも悪意の住み処が用意されおり、男には女性的な面があり、愛情の中に憎悪が紛れ込むことを、僕たちの先達たちは深く感じておりました。光は影があってこそ見えてくるものであり、筋と情はいつも背合わせです。
この「矛盾」を受け入れることのできる「Sophia」こそ、「世界のありのまま」であって、これを「矛盾だから悪だ」として片付けてしまうのは、未だ「Intelligence」の域を出ることのできない未成熟な知性ということになります。
だからこそ、僕たちは成熟するにつれ、【白い紙】のうえに【白い雲】を見る「矛盾」や「否定」と面しなければならないことになります。


“世界のありのまま”の「矛盾」という“液体”状態を、無理矢理、言葉(理性)によってお行儀よく整列させ“固体”にしてしまったのは、他ならぬ西洋の「Intelligence」です。

世界の生の流れや余剰を、言語によって「分ける」ことにより「分かる」を手に入れただけの「Intelligence」とは何だったのでしょう。「心の時代」と叫ばれて久しい今、未だに「Intelligence」ばかりしか目に入らぬ者たちを見る度に、日本文化の未来を憂います。

「分かる」とは、元気に「矛盾」を食べながら自由に大空を羽ばたいていた「ありのままの鳥」(Sophia)を、狭い籠の中に封じ込めペットとして愛玩する(Intelligence)ような、そんな行為にすら思えてきます。
悲しいことに、今の日本の建築界の知性とは、その程度の籠の中の鳥で愛玩されているだけに過ぎません。

■世界の表出の方法とは
さあ、第二章の締めくくりとして、ここまでの内容で世界を表出するにはどうしたらよいのか(HOW)、を考えてみましょう。
結局は 「抜き出された世界」(明在系) 「たたみ込まれた世界」(暗在系) の両方が同時にこの世界に重層していることを知る方法です。
詳細には、 「抜き出された世界」(明在系) は比較的よく見えるようになっていますから、そこに 「たたみ込まれた世界」(暗在系) を重ね合わす方法、と言ってよいでしょう。もっと簡単に言えば、「Intelligence」(知恵)の世界に「Sophia」(叡智)の世界を重ね合わす方法です。
それには二つの方法があると思います。

方法1:「論理(理性)によって論理の限界を暴く」という方法
二元論を使って二元論の限界を暴くことで、一元論との折り合いを付けるというやり方です。

事実、20世紀に入ってからの「宇宙」や「原子」といった極大世界・極小世界では、先の「脳」や「最先端エレクトロニクス」の本質:「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」が示すように、最終的な記述方法としては、言葉という二元論(理性)の限界を暴き出すような矛盾表現でしか表現することはできませんでした。

つまり、既に言葉を持ってしまい、論理を知ってしまった僕たちにとって、もし世界の原理原則に接近しようとするのならば、それはあくまで、理性としての二項対立としての言葉を使用しながら、その言葉のレトリック(YES/NO)の限界を示すというような術しか無い、ということを示しています。
言葉という論理(理性)が分別してしまう世界の貧しさは知っていながらも、私たちは既にそれを使用して世界を表出する術が日常となってしまっています。ここが重要なことです。
だからこそ、「矛盾」とか「否定」という言い方になり、その悪玉を善玉に役替えしようとします。
しかしながら、「矛盾は悪ではない」という言い方は、既に二元論によって二元論の限界を暴き出そうとする方法だったのです。

かつて、言葉を使って「道」を説明しようとした、道元をはじめ西田幾多郎や鈴木大拙、般若心経、そして老子(道教)が使用する「否定」の方法とも重なってきます。
最近では、ジャック=デリダの脱構築がこの方法です。
※本当の意味での脱構築(デ・コンストラクション)とは、世界を「外部から壊す」(斜めにする、ズラす)ことではなく、己自らが「内部崩壊」する様(自己矛盾)を示すことです。この意味で、かつての建築界のデ・コンは「外から壊す」という方法であり、全く意味を取り違えています。

方法2:「論理(理性)によって捉えられない領域に直截的に踏み込む」という方法
直截、無媒介に一元論と交わろうとする方法です。

修行する禅僧は、不立文字の世界にありますから、禅の悟りを頭で“理解”しようとはしません。あくまでそれは実践の中で“知る”ことです。
“理解”は「Intteligence」、“知る”は「Sophia」に当たります。

彼等は、最初こそ二元論を介しますが、その後はそれを媒介にしなくなります。この「無媒介」とは、ある修行によって脳の回路を組み替える、そのことによって実現されます。
でも、これはいつでも極度に特別なことである訳でもなく、例えば 芸術家のある芸術表現の瞬間には、この脳の回路の組み替えが起こっています。

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上図は、我々の「意識の層」を現わしています。
一番上の濃いグレーは日常理性の中でいう「意識」です。
しかし同時にあるものとして、真ん中の薄いグレーが「個人の無意識」、一番下の白が「種としての無意識」となります。

三木成夫の「人類の生命記憶」によれば、我々の60兆個の細胞の中には、生命が1億年かけて遂げてきた進化の記憶すべてが保管されている、といわれます
我々の日常を支えている「理性」や「意識」の他に、それと同時にその何千倍もの「無意識」や「非理性」が現われることなく潜在しています。

一言で言えば、近代以降が目指してきたものは、上の三角形の一番上の濃いグレーの層だけです。しかし、同時にある他の二層へも目を向けることが、これからの建築では必要になってくる訳です。

それは、夢、幻覚、分裂病、芸術家、シャーマンなどといった領域で表出している、言語を超えた状況への対応であります。

例えば、「夢」は、脳の“大脳新皮質”と“海馬”での信号伝達が日常とは異なった方法で伝達されることによって再生されてきます。
「幻覚」は、外部からの情報を取捨選択整理する脳の“視床”という部分が、日常の論理性を成立させている「情報の関所」の役割を果たさなくなるが故に発生してくるものです。
「分裂病」は、“大脳基底核”にある“抑制神経”が情報の交通整理をしなくなり、複数の命令を同時に出すようになってしまうことによって生じてくる精神状態です。
しかし、これと同時に 芸術家の「創造性」とは、上の分裂病を発生させている原因である“ドーパミンの過剰放出”が、脳の“前頭葉”で行われる為に、「精神の病」にならず「創造性」として開花してしまうのです。
また、「シャーマン」と呼ばれる人たちは、ある儀式(脳の回路を組み変える)を通り抜けることで、人類に共通した深い無意識(共同無意識)の層(一番下の層)を、他人と共有できるようになります。



こう考えてみると、
「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」
というシステムの脳に、もっと深い谷底があることがわかってきます。
建築が芸術である以上、その脳のシステム・我々の意識の様相の“ありのまま”にするようにしてみたらどうでしょう。
いつも理性ばかりにタガをはめられながら狭い創造の枠に閉じ込められるのでなく、もっと裾野の広い“ありのまま”に耳を傾けるのです。


健康な人が起きて生活している限り、上のような無意識・非理性が顔をのぞかせることは希ですが,喧嘩や戦争,言い間違え,やりそこない、といった意図から外れた行為やディスコミュニケーション、そして夢などにそれは現われてくるようになります。

近代建築を超えて 現代建築に入ろうとしている今、未だ、「これが現代建築である」という建築は出現していません。
これからの日本の建築文化を背負って立つ者であれば、いつか到来するであろう「現代建築」を、どのように表出させるのか。
そこに、この二つの方法は示唆的になることと予想します。

これらの方法こそ、古来の私たちの先達たちが、精魂込めて闘ってきた叡智と酷似しているのです。



建築家 前田紀貞
建築家との家づくり 建築家と家を建てる

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】



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