前田紀貞の建築家ブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No2

<<   作成日時 : 2010/12/31 18:37   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 36 / トラックバック 0 / コメント 0

■チェスに勝つには模様を見ろ
画像














僕の従兄弟に、チェスの元日本チャンピオンがおります。彼は、名人戦レベルの終盤 その最後の最後の勝敗の決め手、すなわち「どの駒を動かせば勝ちか・・」の判断は、盤上の駒の「模様」に委ねる、と言います。
これは、「最後に動かした駒によって 盤の模様が美しくなる方を採用する」ということです。
画像














同じようなことを、知人のLSIを設計している知人からも聞いたことがあります。あれだけ高密度の電子回路の集積であるLSIの誤作動をチェックする際の常套手段が、これまた「回路の模様」と言います。大抵の場合、「模様の美しくない箇所が故障している」というのです。

これだけ異なった分野にしては驚くほど酷似した話ですが、「勝負の勝敗」や「回路の作動」といった事象が、「模様」という 一見 遠くにあるとしか思えない事象と深く結びついていることは現実の話です。

これは、20世紀になってからの“複雑系の科学”が「バタフライ効果」として示していることと似ています。
“複雑系の科学”は、複雑に渦巻く水流や気象現象、経済や脳のシステムなど、分析するにあまりに多様な事象どうしが絡んでくる分野を扱う科学のことです。現代科学は、「木から落ちるリンゴ」といった程度の分析では事足らず、もっと数値化しにくいものをも巻き込んだ複雑極まりない世界を記述しなければならなくなってきています。
これらはいずれも、前回説明した東洋の「一如」や「縁起」を、なんとか「数値化」しようと模索している状況と言ってしまっていいかもしれません。

ちなみに、「バタフライ効果」の有名な文句としてあるのが、
「北京の蝶の羽ばたきが ニューヨークに嵐を引き起こす」
です。
それまでの機械論的還元主義の西洋知では、「北京の蝶の羽ばたき」と「ニューヨークの嵐」は、遠く離れた「部分」としてあり、そこに縁起(イモヅル)が取り持たれることはありませんでした。
しかし、「バタフライ効果」には、“手の平文様”に、“結婚”や“出世”や“寿命”などが縁起してくることを否定しない前提があります。
“手の平文様”は、それだけで個物として独立している「部分」なのではなく、そこに様々な他の「部分」もが、あれこれとちょっかいを出してきている。その沢山の「部分」たちの複合した絡み合いとして、それが「模様」(手相)という「相」(顔つき)に現われてくる、そう考えます。

■原因と因縁
さて、劇画の中などで、
「おいコラッ、なに因縁つけてんねんっ!」
という言葉が聞かれることがありますね。おっかない言葉ですが、この「因縁」、その由来は仏教からです。これも、世界が互いにイモヅルのように“ちょっかい”を出し合っていることと関係します。

「因縁」は、文字通り「因」+「縁」からできています。
「因」とは『直接的な原因』、そして「縁」とは『間接的な原因』を意味します。

例えば、「私は喫茶店で火傷をした」という事件があったとしましょう。
ここでの「因」(直接因)は、「友人が熱いコーヒーをこぼした」です。西洋の「原因」のことです。単純でわかりやすい図式です。
一方 東洋は、そうした“近場”の「因」だけで終わらせてしまうことをせず、それに加えて「縁」も含めた広範囲での生成理由を問おうとします。
「火傷」の裏には、単に「コーヒーをこぼした」だけでなく、それ以前に「喫茶店のテーブルの脚が外れたから」 → 「その壊れたテーブル席に座ったのは 他が満席だったから」 → 「その喫茶店を選んだのは先輩の行きつけの店だったから」・・という数多の「間接因」(縁)が幾重にも重層して控えています。
どれひとつが抜け落ちたとしても「火傷」することは無かったでしょう。

東洋の「因縁」では、こんな複数の「間接因」(縁)たちが協力し合った結果として、たまたま最終の「火傷をした」が、ひとつの事件として生成されてきたに過ぎない、と捉えます。
あたかも、「手相」に“結婚”や“出世”や“寿命”などが複合的に絡んでくる様と同じです。
「因縁」は、「世界の“ありのまま”」を記述しようとすれば、どんな小さな部分・遠い部分も無視することはできない、と考えます。


「世界の“ありのまま”」を捉えるには、ほんの【一部】の「因」なる「静止画」で終わらせることなく、【すべての部分】である「因+縁」が濁流のように混在する「動画」でなくては片手落ちです。
無常に移ろい続ける世界は、時間軸に沿って発生してくる沢山「因+縁」の“ちょっかいの出し合い”の様、すなわち「動画」として捉えられることとなります。
別の言い方をすれば、西洋理性が「縁」をすべて捨て去り、「原因 → 結果」という一方通行・一対一対応の単純な図式として、たったひとつの「因」だけしか掬い取ろうとしない様。これは、流れ続ける無常の世界を前にして、「はい、写真撮りますから動かないでください」と言っているようなものです。
西洋の「因」のみによる記述が、世界を「一瞬の固体」として「抽象」として捉えるに対し、東洋の「因縁」による記述は「変化し続ける液体」として「具象」としてそれを捉えようとします。後者は、決してお手軽ではありませんが、“流れ”という複雑性こそが、「抽象」という操作を加えられる以前の「世界の“ありのまま”」であったことを忘れてはいけません。


ちなみに、欧米裁判の大原則は「因」(直接因)のみによる【判定】としますが、江戸時代の情状酌量も込めての“大岡裁き”は、「因+縁」(間接因)による世界の【記述】と言うことも可能かもしれません。(その盗みが行われた“背景”には・・・)
或いは、犯罪者が主人公にされるような文学では、「因」(直接的な原因:殺人)よりも、その裏の「縁」(殺人を引き起こした原因)にストーリーの重きが置かれることが一般です。
それは、文学というものが、世界を【判定】するのでなく、世界を【記述】しようとするからに他なりません。

■小さな因縁が大きく世界を変える
繰り返せば、世界の出来事とは 何かたったひとつの「原因」のみによって発生してくるのではなく、沢山の「因と縁」の集まり、その協力し合いによって生成しているということでありました。
出来事とは、世界の無数の事象が一緒になって初めて引き起こされるものだ、という言い方でもいい訳です。言い換えれば、近代理性のように「原因→結果」・「部分の総和=全体」という単純明快な方法だけで世界が生成している訳でもありません。

ここで注意して欲しいことは、上のような複雑な世界観とは、西洋が理性によって抽象化してきた世界、つまり近代科学や数学や形而上学によって記述しようとしていた世界を、より厳しく精査していった結果として発生してきた、という点です。
画像










世界観にはふたつのモデルがあります。左のツリー構造・右のセミラチス構造です。
ちなみに、この「左・右」の関係は、「因・因縁」、「抽象・具象」、「固体・液体」のモデル、と見ればわかりやすいでしょう。

左が示すのは、近代理性が「抽象」化のなか、「具象」世界に潜んでいた根幹以外の“ちっぽけな余剰”を捨て去ってしまい、そこに残る本質だけを抽出しようとしたモデルです。無数の事象は、「抽象の意志」にそぐうような強く構築的なパースペクティブとして統制されてゆきます。科学も数学も、この演繹法に依っていますが、このシステムからはみ出てしまう“ちっぽけな余剰”は、あっさりと捨てられてしまっていたことも事実です。

一方、時代が現代に近づくにつれ、そうした「抽象」の過程で落としてしまった“ちっぽけな余剰”が、実は最後の結果にとって予想外に異常なほど大きな影響力を持ってくることがある、そういうことがわかってきました。
「北京の蝶の羽ばたきが ニューヨークに嵐を引き起こす」というようなケースです。
「世界の“ありのまま”」すなわち「具象世界」を前にした時、最初のうちは微力な因縁だったからといって、最後までそれが微力であるとは限らない。それどころか、小さな小さな因縁が、何かの拍子で突然劇的に結果を変えてしまうことがあるからこそ、過度な「抽象」は危険である。
これが、複雑系の科学の根幹にある重要な思想です。
そうした「すべての部分がすべての部分と結びついている」モデルが右となります。


2008年にノーベル物理学賞を受賞した「CP対称性の破れ」という論文の中で、小林誠氏と益川敏英氏は、140億年前のビッグバンの瞬間の宇宙には、「100億個の反粒子」と「100億1個の粒子」という、驚異的に僅かな個数の違い(対称性の破れ)があったからこそ、現在の宇宙には物質が存在できているのだ、と説明します。
これも、「髪の毛の先ほどのちっぽけな違いが、実は最後の結果に異常なほど大きな影響力を持ってくる」、そういう考えの例のひとつです。
「抽象化」とは、そもそもの「世界の“ありのまま”」から人間が「捨てるもの/拾うもの」を決めてしまう行為をいいますが、その選択基準があくまで人間の“スケール感”という“(人間側の)勘”によっていた、ということに誤謬の原因がありました。
勝手に“宇宙の王様”であると勘違いしてきた おめでたい人間たち(理性)が追い求めてきたものとは、「世界の“ありのまま”」(右図)ではなく「人間側の世界」(左図)に過ぎませんでした。
世界とは、人間なんぞが勝手に価値を決められるほど簡単なものではなかったのに。


ですから、建築という「具象世界」を対象にする時も、この「抽象」と「具象」への考察は、尚更のこと考慮されなければならない点なのであります。僕たち建築家は、それでも相変わらず「抽象世界」のモデルだけで思考しているようでは、あまりに片手落ちであるのです。

さて、この複雑な世界観に関して、もう少し説明を続けてみます。

■脳のシステム
西洋知も20世紀に入った頃からようやく、東洋の「縁起」や「相」といった概念に近づき、流動的な「世界の“ありのまま”」を、余すことなく捉えようとする方法に接近し始めるようになりました。
今までの、機械論的還元主義という固体によって、「部分」が「部分」のまま個物としてあってしまう抽象の方法ではなく、世界とは「すべての部分がすべての部分と結びついている」という複雑な絡み合いを成すという具象で液体のまなざし。一見、近代理性からしたら“遠くにある”と思われていた微細なものまでも含めての関係(つながり)を考えないと、どうもつじつまが合わなくなってしまったことは、前記の通りです。

そしてそこでは、「全体の中に部分がある」(部分の総和=全体)だけでなく、「部分の中に全体がある」という一見あべこべの「矛盾」にこそ、世界の本質というものがある、と気付かれるようになりました。
画像














この「矛盾」を説明するのに適した一例は、我々の脳のシステムです。
最初に言っておけば、
=西洋:「全体の中に部分がある」という「機械」(固体)のメタファー
=東洋:「部分の中に全体がある」という「脳」 (流体)のメタファー

といえます。

=前者を「身体」のメタファー
=後者を「意識」のメタファー

と言い換えても結構です。

アメリカの科学者:ラシェリーが行った有名な実験があります。
まず、数匹のラットに何度も迷路を走らせ、そこから脱出する道順を記憶させます。その後、脱出の道順を学習した数匹のラットたちの脳の それぞれに違う部分を少しずつ切り取ってゆきます。
この方法によれば、切除した後、迷路を脱出できなくなったラットの“切除した脳の部分”にこそ、道順の記憶が蓄積されていた、と判定することができます。
尚当然ながら、この実験の前提には、「脳のある“部分”には、特定のある“記憶”が蓄積されている」という一対一対応の関係が潜んでいます。
ラットの脳に1万個の記憶の引き出しがあれば、1万個分の記憶が可能である(部分の総和=全体)という考えです。

しかし・・・、ラシェリーが相当部分の脳を細かく切り刻んで行っても、不思議なことにすべてのラットは迷路の脱出に成功してしまったのです。

そこでラシェリーは次のように考えました。
「脳の記憶というものは、脳というハードディスクの“部分”ごとに個別に保存されているのではなく、脳“全体”にバラまかれるようにして保存されているのだ」と。
すなわち、ある記憶(部分)というものは、脳に蓄積されている記憶の「全体」が皆で協力し合うことで ようやく再生されてくる、ということです。決して一対一対応で成立するシステムではありません。
そういう意味からすれば、脳の記憶とはどこにでもあるものであって、どこか一カ所だけにあるものではありません。或いは、どこか一カ所にあるだけのものではなく、どこにでも散らばっているもの、とも言えます。
実に奇妙な在り方をしています。

この脳の記憶の:
「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」
という奇妙な状態によって初めて再生されてくるシステム。
「YES=NO」「有=無」というようなその奇妙さこそが、太古からある生命システム(脳)の本質であり、近代の「理性」からしたら理解し難い「矛盾」という様相を呈しています。

どうして理性的である筈の脳が、このような非理性のシステムを内包しているのでしょうか。

■ホログラムのシステム
画像

















いまひとつ、ホログラムという3次元写真でも同様なことがいえます。
よくデパートの玩具売り場で目にする、いかにも手で触ることのできそうな、あの立体画像を映し出す装置です。
ホログラムは、従来の“プリント写真”のように紙面に顔料を定着させて画像を現わし出すのではなく、プリント板に複数の光を当てて、その光の重ね合わせによって画像を再生するものです。

詳細な説明は省きますが、上のドラゴンボールのホログラム、その“目”の位置にあるプリント板にキリで穴を空けても、当の“目”の部分がまるまる欠損することはありません。そうではなくて、ドラゴンボールの全体像が少しぼやけるだけです。従来の“プリント写真”の場合、“目”の部分に穴を空ければ、そこが完全に損傷してしまう、つまり「ある部分の情報はその部分だけに存在するだけである」という当たり前のシステムとは対照的です。
つまり、ホログラムのシステムでは、「“目”という部分は “目”という部分にはない」という「矛盾」が起こっています。

ここでは、ドラゴンボールの“目”(部分)を作り出している情報が何に依っているか、ということが重要です。
それは、当の“目”の「部分」に当てられている光だけでなく、他の部分(耳、口、髪・・)へ照射される光も含めて、それら全部が協力し合って、“目”(部分)の画像を再生している訳です。同時に、“目”に照射されている光は、“目”の部分だけでなくその他全体の部位(耳、口、髪・・)を再現することにも協力しています。
ホログラムも、先の脳のシステムと同様に、「部分」と「全体」は相互依存のお互い様のシステムになっています。
言うまでもなく、「部分の総和=全体」という、近代の図式は成立しません。

ここでも再び、
「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」、すなわち「YES=NO」「有=無」という
という「矛盾」が顔を出すこととなります。


脳という250万年前からあるシステムにも、最新のエレクトロニクスシステムにも、その根本には近代の「理性」(論理)では掬い取ることのできぬ複雑性と「矛盾」が横たわっていることがわかっていただけたことと思います。

理性的である筈の「脳」。これを支えているシステムが何故「理性」とは遠い「矛盾」なのか。
次は、これを解明してみたいと思います。

■ 言葉による分別
まず、近代の「理性」を支えてきたものが「言葉」であったことを思い起こしてみます。

例えば、「四季」とか「暦」という「言葉」の無い時代に生きた人たちは、一日・一ヶ月・一年という分節のない穏やかな時間の移ろいを、【クリスマス】とか【年末】という商業的なイメージからは無縁に、その日ごとの空気の“ありのまま”の感触を感じつつ生きていました。
空気の冷たさや湿り気、肌を触る風や臭い、四つ足の鳴き声や枝に実る食べ物、そして空を飛び交う天体たち。世界は言葉によって未だ分節されていませんから、それらは別個に分節されることなく、ただ液体のようにべっとりしたひと連なりの時間が中性的に人を包んでくれているだけでした。
【夏は暑い】とか【秋は涼しい】という「四季」なる概念もありませんでしたから、時間の流れを「四季」ではなく「八季」くらいに感じていたかもしれません。

いずれにせよ、「言葉」によって「夏」という分節が成される以前の人たちは、世界の風景と時間の移ろいを、無色で流動的な一枚布(一元論)と感じていたことには違いありません。「白/黒」も、「軽/重」も、「昼/夜」も、「男/女」も、そういった二項対立も未だなく「一」である。あったのは、「世界の“ありのまま”」ののっぺりした「一」との無垢な戯れだけでありました。

ところがしばらくして、その のっぺりとした無色の流れを、節々に“分ける”「言葉」が現われるようになると、1日を24時間、1ヶ月を30日、1年を12ヶ月という「部分」に分解・分析するようになりました。
肌を刺す感触は「冬」と呼ばれるようになり、ジリジリ焼かれるような感触は「夏」と呼ばれるようになります。
人は、「正月」、「彼岸」、「衣替」、「梅雨」、「秋祭」の時期を「分かる」ようにはなりましたが、同時に、それまで感じ取ることのできていた風の圧力やヨダカの鳴き声、川の匂いや水の味を味わうことが、どんどん不得意になってゆきました。

「セミの鳴き声“そのもの”」が染み入っていた耳は、「夏鳴く虫の声」をお決まりの記号のように受信するだけになってしまいました。「〜朝焼け〜朝〜昼〜黄昏〜夜〜深夜〜」といったそもそもの「世界のありのまま」、その芳醇なグラデーションは、多忙なビジネスマンにとっての「昼/夜」という明快な二項対立に行儀良く分別されてしまうようになりました。「八季」あった移ろいも「四季」に痩せてゆき、「十五感」ほどあった感覚も「五感」に縮小されてゆくこととなりました。
ちなみにハイデッガーは、「世界のありのまま」を「存在世界」、分別されて「〜の為に」役割の決められてしまった世界を「道具世界」と呼びます。

つまるところこうした状況とは、ひと連なりの時間の流れとしての「世界の“ありのまま”」が、言葉という理性によって「分ける」ことが成され、結果「分かる」ようになった、ということを意味するのです。
「分かる」は「分ける」なのです。



「分ける」によって、世界は「分かる」(分析・理解される)ようになりましたが、「世界への接し方」つまり「感じ方」からすれば、随分とやせ細ってしまった、ということは悲しむべきことです。
そう、ここが問題です。僕たちの建築世界では、「分かる」より「感じる」ことの方が優位であります。
今、日本中、皆が躍起になっているものは、言葉やダイアグラムで分析解析するような「分かる建築」です。言葉で説明可能な建築、と言ってもいいでしょう。
そこでは、一見 言語で説明可能なもの以外にも言及しているよう装われていますが、その関心は全くの見せかけに過ぎません。
「世界の“ありのまま”」は、完全に置いてきぼりにされてしまっています・・・。

■不立文字
ちなみに、禅宗では、不立文字(ふりゅうもんじ)といって、言葉(理性)によって「世界」を不動の個物として「分けて」しまうことを良しとしない姿勢があります。
それは、既に述べた通りです。

言葉とは、それを使って「世界の“ありのまま”」を「分ける」ことをしてしまった瞬間、言葉それ自身によって示される相手は変質してしまうものだからです。
西洋形而上学の「ロゴス(言葉)中心主義」が最後まで(完全な武器としての)言葉を信頼し、言葉によって世界を切り分け、世界を言葉という道具によって、不動の固体として記述し尽くそう(=断定)とした態度とは正反対です。

■矛盾こそ真理である
さて、ここで矛盾と理性について明確にしましょう。
結論を先に言ってしまえば、順番からすれば「矛盾が先 → 理性が後」です。

脳やエレクトロニクスの「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」という 「矛盾」なる「摂理」が誕生したのは、遙か250万年も前でありました。一方、「無矛盾」を売りとする「理性」(二元論)の誕生は、たかだか2000年前に過ぎません。
ということは、新参者である「理性」(無矛盾)のレンジが 未だ未成熟なだけであって、それが、遙か昔からの「摂理」(矛盾)の域に未だ達していない、とするのが正統なところでしょう。

すなわち、「矛盾は悪」とは、たかだかこの2000年の理性(二元論)が、世界を二項対立(YES/NO)で説明しながら どうしても手に負えぬ状況を前にして作り出したプロパガンダであることがわかります。
世界を「YES/NO」に分けて考える理性(二元論)が、そこから漏れ出てしまう余剰を前にして、その説明不能な余剰に「矛盾」という仲間はずれの烙印を押して認めないことにすれば、二元論のメンツは保たれる、そういう訳です。
にもかかわらず、そういった理性(論理)の傲慢に気付かぬまま、「矛盾とは悪だ」と物知り顔で納得してしまう日本人。

それは特に、僕たちが戦後の欧米教育のお行儀によって、きっちりと型にはめられてきてしまったことに、大きな原因があります。

もし仮に、「世界がその始まりから白/黒によって(二色)分別されたもの」としてあって、そしてその後に「灰色」に交じった、という順番なら「灰色」は「矛盾」として、悪になるかもしれません。しかしながら実際のところは、世界の始まりは、無色の一如(一色)であったところ、その後 無理矢理、「白/黒」という二項対立のパースペクティブが適用され分別されてしまった、そういうことなのです。
いいですか、間違わないでください。
「矛盾が悪」なのではなく「分別することが悪」なのです。


ここで、
=東洋:「摂理は一に混ぜ」(一元論)
=西洋:「理性は二に分け」(二元論)
という対比的な表現を用いればわかりやすいでしょう。


こう感じられるようになれば、「矛盾」とは、何もおかしいものでないどころか、実に歓迎されるべき、そもそもの「世界の“ありのまま”」であったことがおわかりいただけたかと思います。※1
※1:「前田紀貞エッセイ」(アルマジロの章を参照)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~norisada/forarchitects/ESSEY/essay05.html




西洋文化・西洋理性に対して、知らず知らずのうちに土下座してしまっている今の日本人に対して、だからこそ僕は、常々、東洋の思想を大切にしなければならないと申します。
多くの人たちは、「矛盾こそ歓迎されるべきものである」と言われても、なんのことかさっぱりわからない状況でしょう。
でも、こんな調子では未来の日本の文化を背負って立つ立場の者としては、実に困るのです。

こういったことが分からない限り、例えば「弱い建築は正しいが、強い建築は間違っている」という今の建築界に蔓延しているような その場限りの安直に陥ります。
「建築のありのまま」を言えば、「強か / 弱か」という思考に陥ってしまった時点で負けです。

この意味では、「強い建築は正しいが、弱い建築は間違っている」という逆の言説も同様に宜しくありません。
そうではなくて、その「二項対立以前の世界の状態」に目をやらねばならない訳です。
「強 / 弱」、いや より一般的には「有 / 無」という二項対立の基底である場所、これこそが「空」と呼ばれる 一番の要としての働きとしての場所なのです。
この「空」は、「超越論的地平」とも呼ばれます。
※2
※2:「思考で最も大切なこと・・・・空」を参照
http://www5a.biglobe.ne.jp/~norisada/forarchitects/ESSEY/essay05.html



さて、「超越論的地平」について説明しましょう。
簡単な実験として、目をつぶって脳裏に赤いリンゴを思い浮かべ、そして次にそれを消してみてください。意識の中のリンゴは「有る」ようにも「無い」ようにもなりましたね。
そして、リンゴを「有る」ようにも「無い」ようにも成らしめていたのは、あなたの意識の中にある何か映画のスクリーンのような真っ暗な膜のようなものだったでしょう。
この意識の中のスクリーンは、手で触ることも目で見ることもできません。それでも、確実に存在しています。それは「無いという在り方で有る」のですが、そこから(リンゴの)「有」も「無」も発生してきます。
これを「意識野」と呼び、そのスクリーンのようなものこそが「超越論的地平」と呼ばれる何かです。
すべての二元論の対極事象には、このような「超越論的地平」が設定されます。だから、「強」とか「弱」という片極に寄ることが違うと申します。大切なのは、その「強・弱」をそこから産み出す「基底」にある「超越論的地平」すなわち「空」と呼ばれるものです。

ちなみに僕が、各所で「まずは強いことを」と申し上げているのは、「弱」に寄る人たちに「強」を知っていただかなければ、「強 / 弱」のセットにならないからです。セットとは二元論ではありません。逆にそれを否定する為のものです。
「強」だけでも「弱」だけでもいけません。
そうではなくて、「強=弱」「YES=NO」「有=無」なる二項の区別、或いはその区別し損ないがそこから産まれてくる「空」、そういった「超越論的地平」こそが、世界の有様の大元であるということです。

画像












■中間のまとめ
このへんで、ちょうど今回の三部作の真ん中へんなので、キーワードを列記しながら要旨をまとめておきましょう。

・世界の各事象は、互いに分子のキャッチボールをしている
・そこには、個物としての不動の実体は無く、分子はいつも他の事象へ移り変わってしまう(海は雲になり、雲は雨になり、・・・)
・その“実体の無さ”(空っぽ)のことを「空」と呼ぶ
・この実体なく無常に移ろい合うことを「縁起」と呼ぶ
・その一枚布の世界は「一如」である
・「縁起」するものは、「相」として遠くの事象と結びつく(バタフライ効果・因縁)
・それは、理性によって捉えられぬ「矛盾」をそのシステムの要としている(どこにでもあって、どこにもない)
・それは、「脳」や「最先端エレクトロニクス」の中に見られるシステムと類似している
・それらは、言葉や理性によって説明できる二元論より 遙か昔からあったシステム(一元論)である
・「世界の“ありのまま”」とは「矛盾」であった
・この二千年の人間の理性(言葉)によって「分ける」ことをされてしまった世界は「分かる」ようにはなったが、原初の生のダイナミズムや余剰を失ってしまった
・よって、「矛盾は悪である」ではなく「分別が悪である」が相応しい
・世界を「分別」をしない「無分別」とは、先の一如・縁起の一枚布のことである
・世界を無常で流れ続けさせるための「空」という“働き”、これこそが世界の原理原則である

こんなところでしょうか。

■時間も一如である(ボームのグリセリン実験)
さて、ここまでは世界観の「空間」的様相について話をしてきました。
ですが実は、「時間」も一如であることを説明してみましょう。
「ええ・・? 時間なんて過去 → 現在 →未来という個物としてあって、一枚布の筈ないじゃないか・・」というのが普通の理解でしょうから。


ボームという科学者が行った、非常に面白い実験で説明します。
まず下図のように、ビーカーの中に試験管を入れます。次に、それらの隙間(試験管の外側・ビーカーの内側)にグリセリンをたっぷり注ぎ込みます。ここから実験開始です。
画像














@:黄インク
画像








まず、このグリセリンに不溶性の黄インクを“点滴”になるように落とします(左)。次に、内側の試験管を“時計回り”にゆっくりと回すと、徐々に黄インクは“帯状”に流れるようになり(中)、そのまま回し続けると最後には多量のグリセリンと混ぜられ色は消えてゆきます(右)。

A:青インク
次にその同じ液体に、こんどは青インクを同じ手順で垂らし、同じ手順で回転させてみます。すると青インクも同様に、“点滴”(左)から“帯状”(中)を経て最後には多量のグリセリンと混ぜられて色を失ってゆきます(右)。

画像







B:赤インク
最後に、同じ溶液に三番目として赤インクを使って同様な処置を行います。
画像









ここからが面白いところです。
画像








今度は、今までと逆の“反時計回り”に試験管を回転させてみます。
すると、透明であった筈の混合液(左)の表面に、みるみる最後に入れた「赤インク」が“帯状”にもう一度現われてくるのです(中)。そして間もなく“点滴”状態になります(右)。まるで、ビデオテープを逆再生しているかのようです。

画像







更にこの反時計回りの操作を続けると、赤インクは消えて行き、次には(2番目に入れた)「青インク」が「未来」から戻ってきます。
グリセリンでは、こういうことが起きるのです・・・。


ここで、「黄→青→赤」のインクを、垂らした順番に「過去(黄)→現在(青)→未来(赤)」と考えてみましょう。
重要なことは、反時計周りによって「青インク」(現在)が戻ってきた上のような状態の瞬間、そこに見えているのは「現在(青)」だけのように見えますが、事実としてはグリセリン溶液の中には、「過去(黄)」も「未来(赤)」もが、一緒に「一」として「混ぜられ」ながら存在している、という事実です。
まさに一枚布の液体として。


今の操作で、
=“時計回り”は、「過去・現在・未来」が混合されて「一」に「混ぜられてゆくプロセス」(Integrate)

反対に
=“反時計回り”は、それらが「多」に「分けられてゆくプロセス」(Articulate)を示します。

これは、世界が「空間」として一如(一枚布)であったと同じように、「過去・現在・未来」という「時間」ですら、それらは個物として別個ではない、ということを示しています。
時間とは「“現在”の中に“過去”も“未来”も混ぜられて一如になっている」そんな何かであると捉えるのが妥当です。

時間とは、「過去 → 現在 → 未来」と矢のように順番に流れてゆく様なものではなく、この“今”という一瞬の「部分」の中に、“過去”も“未来”もその「全部」が、怒濤のように混入している、正に「部分の中に全体がある」という在り方で有ることになります。

こうして、時間でも 再び 脳やホログラムのシステム:
「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」
が顔を出します。

■「たたみ込まれた世界」 / 「抜き出された世界」
上で、三色インク(過去・現在・未来)が“一として溶け合っている状態”を
「たたみ込まれた世界」(暗在系)

と呼びます。
反対に、溶けていたインクが、反時計回りで、“個別の色として分けられてくる状態”を
「抜き出された世界」(明在系)

と呼びます。

先の論との比較を適用しながら、世界を成り立たせている2つの側面について整理してみます。

画像




という対応関係になります。

ここで気付かれるべきことは、
当然ながら、世界は 数え切れぬほど沢山の事象で成立していますが、それが「一」に混じって見えている状態(左)と「多」に分けられている状態(右)は、同じひとつの世界を違う視点から見た違いに過ぎない、ということです。
あくまで、「暗在系」として見せる顔(存在世界)と、「明在系」としても見せる顔(道具世界)は、両方同時に存在している
ということが要です。
左の世界だけでも右の世界だけでもないのです。

僕たちの日常の世界は、「明在系」(分別された個物の世界:道具世界)として現われますが、実はそれは「暗在系」の「一如世界:無分別の世界=世界の“ありのまま”」が一瞬だけ通り過ぎた時に落としてゆく「影」のようなものです。
裏表を分けるとしても、あくまでそれは一体の関係です。

画像


















日常目に見える「“影”だけが世界のすべてである」と判断しては、世界を見誤ります。

画像














或いは無常に流れゆく一枚布の液体の動画を、一瞬の静止画として封じ込め、「その“分けられ固定された風景”だけが世界のすべてである」と判断しては、100m走のダイナミズムを知ることはできません。


西洋知(理性)とは、この「一瞬の影」という分別され個物化した秩序として世界を固定しようとしてきた歴史でした。
確かに、その分別によって見えてきた世界もありました。がしかし、そこで失ってしまったものも同時にありました。僕が申し上げたいのは、建築家として新しく世界を表出させようとするに際し、このいずれか一方では片手落ちだ、ということです。
もう一方である、矛盾を受け入れる東洋知が、影を産み出す「世界の“ありのまま”」として、同時にあることが必要なのです。


・世界は、表面上は「二の世界」(二元論)に分けられていますが、それと同時に、「一の世界」(一元論)としてあり、そこに境目がありません。

蛇足ですが、上の文章を

・世界は、表面上は「二の世界」(二元論)に分けられていますが、その裏側では、「一の世界」(一元論)としてあり、そこに境目がありません。

と記載してはいけません。

後の文章で「その裏側では」という言葉を使うということは、「表と裏」という二元論での比較説明に陥ってしまうことになります。
こうした不用意は、ずっと一元論で貫こうとしている我々の筋道に、知らぬうちに二元論の思考を混じらせ汚してしまうことになります。
「“同時”」と「“裏側”」は、一見どちらでもよさそうですが、その実は 全く違った知性がそこにあるということに気付いてください。
言葉を選ばなくてはいけない理由です。

いずれにせよ、こういった表と裏が「同時に」という「矛盾」こそ、世界の原理原則です。
我々は表面上では、【雲】(空間)とか【今】(時間)といった「部分」(個物)を見ているに過ぎないにしても、と同時にそれらは一如世界の「全体」と絡み合った様を見ていることでもあるのです。
「一」と同時に沢山の縁起した「多」が、重層して同時存在しています。それこそが・・・「世界」というものなのです。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 36
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた
面白い 面白い 面白い 面白い 面白い
ナイス ナイス ナイス
ガッツ(がんばれ!)
建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No2 前田紀貞の建築家ブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる