前田紀貞の建築家ブログ

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zoom RSS 建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No1

<<   作成日時 : 2010/10/26 15:20   >>

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■覚悟 
今回のものをまとめ上げるのに、半年ほどの時間を要しました。書いては放り投げ、放り投げてはまた取っ組み合いをして。これは、僕の最も深くにある思想です。これを支えに毎日生きている、と言っても過言ではありません。
此度の文章は、長いタイトルが示す通り、決してお手軽なものではありません。ましてや、建築デザインの情報でもなければ、枝葉のテクニックのお話でもありません。そういった その場限りのものではありません。
僕が大学の時分からずっと己の礎にしてきた概念を、誰にでもわかるよう平易に説明したつもりです。だから、「一冊の本を読む」という覚悟で、ゆっくりと読んでもらえれば嬉しいです。読み飛ばすのではなく、肉にし血にしてください。

ここにしたためたような「原理原則」がしっかりと身に叩き込まれていれば、建築を目指す人たちの何かが変わることを期して書きました。だから敢えて、「原理原則」という言葉を使用しました。
いや実は、ここに記されている内容は、建築だけでなく人生の指針になってくれるであろうことは、読み進むにつれわかってくることと思います。

いつも以上に長文ですから、数編に分けました。
最初は大枠のおさらいから出発しますが、中盤から終盤にかけてどんどん深くなってゆきます。

どうか、未来の日本の建築界の為に、「自分で考える」ことの根を太くしてください。どうか、建築をお洒落でお手軽な遊び道具にすることなく、心底愛してやってください。


■「この白い紙のうえに、ぽっかり浮かんだ白い雲が見えますか?」
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ベトナムの禅僧:ティク・ナット・ハンの著書に「いにしえの道、白い雲」というものがありますが、そこに次のような言葉があります。
「あなたは、この白い紙のうえに ぽっかり浮かんだ白い雲が見えますか?」

いかにも公案(禅問答)らしい問いかけですが、僕は、こうしたものに実直に寄り添える謙虚な知性をあなたがたに持っていただきたいと希望します。それは学問の頭ではなく、生きようとすることの頭です。建築の新着情報やテクニック、デザインや思想。そんなものを雑誌メディアなどから吸収することより遙かに重量感あり必須のことです。建築も、ファーストフードばかり食べていてはいけません。
あなたたちにとっての建築とはなにか?それを根源から問い求める魂を持ってください。


「この白い紙のうえに ぽっかり浮かんだ白い雲が見えますか?」
今回は、ここからです。

■分別された個物
さて、【私】たちは、空に浮かんでいる【雲】を眺めたとき、「雲≠私」と思います。そして同じようにして、【私】≠【あなた】≠【建築】≠【雲】として、どれもが皆、各々に分別されて違うものだ、と思うことでしょう。

でもはたして本当にそうでしょうか。本当に「世界」は、分別された「個物」なのでしょうか。この当たり前のことが、実は今回の要です。
※「個物」(こぶつ)とは、“それ”が“それ”としてだけあって、他と関係を持たない物の在り方を指します。

■【私】は分子の玉でできている
さて、仏教には「一如」(いちにょ)という言葉があります。
「一如」とは、【私】も、【海】も、【雲】も、【雨】も、【土】も、【トウモロコシ】も、【豚】も、互いにひとつらなりで一体であり、それらの間に境目が無いことを言います。つまり、世界のすべてのものたちは「≠」(個物)でなく「=」(一如)で関係している、という考えです。これを、
『すべての世界は一枚布である』
という言い方をしてもいいでしょう。

ですから、【私】=【あなた】=【建築】=【雲】となります。さっきの分別された世界とは正反対の考えです。なんとなくわかるような わからないような・・・。

では、この意味するところをまずは、“科学的”に説明してみたいと考えます。
それには、分子生物学者である福岡伸一氏の著書:「生物と無生物のあいだ」の説明がわかりやすいでしょう。
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まず、【私】(の細胞)は、分子レベルではおおまかに、C(炭素)とH(水素)とO(酸素)とN(窒素)といった分子の玉(上図の白玉)によって構成されていることを思い起こしてください。
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上図は、【私】に外から【食べ物】(赤玉)が入ってくるところです。その【食べ物】じたいも同様に、分子レベルではおおかたがC・H・O・Nの分子の玉で構成されています。
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「食事をする」ということは、今まで【食べ物】を構成していた赤玉たちが、次の段階として、【私】の細胞(タンパク質)を構成するように役割を変える、そういうことです。
同時にこのとき、やってきた赤玉によって押し出された白玉は、尿、便、汗、垢、等(左の白球)の【排泄物】として体外へ排泄されてゆきます。
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このような【食事】(入)と【排泄】(出)のワンセットが1年ほども続くと、かつて【私】を構成していた分子の玉は全品交換されてしまいます。
すなわち、「1年前の【私】」と「今日の【私】」では、それを構成する分子じたいに関しては、なにひとつ同じ部品がないことになります。ただそれでも、【私】は依然として【私】であり続けます。そんな【私】って何なのだろう・・・と思いますね。構成する部品はすべて違ってしまっているにもかかわらず、それでも同じだなんて。
実は、今回の話はこのへんに鍵があります。


或いは、【私】を構成している分子の玉が常に流動的に入れ替わっていることを、
「【私】の内部をC・H・O・N 分子の玉が通過してゆく」
と見ることも可能です。
分子の玉たちは、一時は皆で協力して【食べ物】を構成し、次に【私】を構成し、次に【排泄物】を構成するように、どんどん その住み処を引っ越しし続けてゆきます。

■無常の【私】
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或いは、【私】というものは、「バケツに注ぎこまれ続ける水」というふうに見ることもできます。
上図のように、ホースから注ぎ込まれた水(分子玉)が【食事】、溢れ出る水(分子玉)が【排泄】です。
この図では、一見 常に満杯で“同じである”ように見えていても、「実はいつも水は入れ替わっている」ことが重要です。この“変わりながら変わっていない”という在り方、これぞ【私】というものの本質なのです。
【私】というのは不変であるように見えて、実は、空気の吸い/吐き、食事/排泄の度ごとに、【昨日の私】と【今日の私】を構成する部品としての分子は、常に交代させられてしまっています。
言い換えれば、「変わること」と「変わらないこと」の間、その「自己否定」の中にこそ【私】とういもの本質はあるということになります。

福岡伸一氏はこれを、
「私たちの生命とは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい淀みでしかない」
とも、
「この流れじたいが、生きていることである」
とも言います。
この“流れ続けること”は、【私】のみならず【世界】というものの根底にあるナニカです。
“流れ”といういつも常で無いことこそ、「無常」とか「無我」と深く関係してくるものなのです。


分子の玉たちは皆で協力し合って、ある時には【食べ物】、ある時には【私】、ある時には【排泄物】を構成してゆきます。そうしていつも流れ続け、常なることがありません。
ただ同時に、「無常」だからといって、時経るごとに、【私】なるものの秩序が無茶苦茶バラバラになってしまうものでもありません。これは“バケツの水”を見れば一目瞭然明ですし、【一年前の私】と【今日の私】の同じ様を見ても明らかなことです。

【私】の「無常」とは、変化しつつも そこに何かしらのゆるい秩序だけは保たれる、そういう両義性のことです。「無常なること」と「常なること」という「矛盾」の間で震えているもの、それが【私】や【世界】だと思えばいいのです。

■分子の引っ越し
もう少し話を広げてみましょう。
先の話で、【食べ物】、【私】、【排泄物】は、どれも無常で流れ続けていることはわかりました。ではその他の世界は、一体どうなっているのでしょう。
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その仕組みは簡単で、【排泄物】を構成していた分子の玉たちは 下水道を経て【海】を構成することにその役目を変えます。その後、分子は蒸発と共に【雲】を構成し、凝固して【雨】を構成し、落下して【土】を構成し、吸収されて【トウモロコシ】を構成するようになります。
更に、その【トウモロコシ】を食べた【豚】の細胞を構成し、再び【食べ物】として【私】の分子を構成する役割を果たす為、戻って来ることになります。
おやおや、結局、【私】から始まった“流れ”が「無常」のなか、再びフリダシに戻ってきてしまいました。これは世界の各々の事象がバレーボールのトスリレーのように、永遠にC・H・O・Nの分子の玉をパスし続けているような、そんなイメージです。

これぞ、先の
『すべての世界は、切れ目の無い一枚布である』
すなわち、
【私】=【排泄物】=【海】=【雲】=【雨】=【土】=【トウモロコシ】=【豚】=【私】
の真相です。
世界のひとつひとつの事象たちは、何ひとつ「個物」として分別されているものはなく、C・H・O・Nの分子たちが、その時ごとに色々な役割を担いながら、住み処を引っ越しし続けている。しかも、「すべての世界の事象たちを、その都度 構成している分子の玉たちは、どれも同じである」ということ。世界とは実はそういう状態だったのです。どれも分別された「個物」として、そういう「実体」としてあり続けることはありません。ですから、
【私】=【あなた】=【建築】
となることも同様です。

さて、ここから数行は特に大切なことですから、しっかり頭に叩き込んでください。
世界には、【私】・【雲】・【雨】などと言葉で分別された、実体としていつまでも変わらぬ「個物」など無いこと。それはいつも他に成り代わる状況にあること。これが「無常」と呼ばれるものであるのです。
同時に、沢山の“流れ続ける事象”が「他のものに成り代わろう」とする働き(雲が雨になる)、この働きのことが「縁起」と呼ばれること。
ちなみに、この表現のされかたは、以下のように違ってきます。

西洋: 【雲】を構成していた分子が【雨】を構成するようになる
東洋: 【雲】と【雨】は縁起する

東洋では、「縁」によって、世界の「すべてのものはすべてのものと結びつく」ことになっています。世界の一切は分別されることなく「一枚布」であると言われる所以です。これが「私は雲である」の意味です。仏教では、この「一枚布」を「一如」と呼びます。
この世界のものたちは、決してバラバラの「個物」ではなく、それらは同じ分子の玉によって順繰り順繰りに構成され 入れ代わっている。そういった「一如」こそ実は、僕たちの世界の唯一の原理原則となるのです。

もし反対に、【雲】が【雲】という「個物」のままでいることに固執し【雨】になることを拒んだら、【海】が【海】として分別されたままで【雲】になる為の分子のパスを嫌がったら・・・。
そのとき、「無常」は「常」となり、【世界】は固定されてしまい死を迎えます。
雨が降ることもなく、雲がそよぐこともなく、四季が移ろうこともありません。私は呼吸することすらできず、排泄することもありません。だからこそ、世界のダイナミズムは「無常」と「縁起」によって支えられることとなります。
世界は流れ続けているが、同時にそこで一瞬だけ秩序が保たれる。これが世界の有様であり、「非線形」という概念の根幹にあるものです。


ちなみに、西洋哲学(形而上学)では、
「世界は不変な実体として(言葉によって)個物として定義される」
ことを前提にしてきました。ですから
=「世界とは何か?」:WHAT
という、「個物」(そのもの)という「解答」を手中に収めようとします。

一方、東洋哲学(仏教)は、「世界」というものがいつも流動的であり、決して“不変の実体”でないが為に、一瞬の“そのもの”を掬おうと思っても掬い取れないことを知っておりました。ですから、そこでは
=「世界とは、どのようにして表出してくるのか?」:HOW
という移ろいの様(働き)を問おうとしました。

前者を「真理」、後者を「相」・「縁」と呼びます。これは「静止画の固定」と「動画の流れ」のような違いですが、西洋と東洋を明快に区分けするひとつのスタンダードな視線となります。

東洋の世界観では、分子というボールをもらったら即座に隣の人にパスしてあげること(無常)、これだけが世界のルール(原理原則)でした。ですからその無常故に、世界に「永遠に個物としてあり続けるもの」(実体)などなく、それは「そのままであり続けることはできないもの」(非実体)としてしか存在のしようがなくなります。
「そのもの」という不動に手を触れることができないから、それを移ろわせる“働き”の方を問うのです。この、「世界を移ろわせる“働き”」が「縁起」と呼ばれるもので、その縁起の様相のことを「相」と申します。

そして、西洋の「あるべきもの」という“必然”として定義された実体に対して、“偶然”受け入れられた「ありのまま」 という考えの対比がここに生まれます。世界が「固体」(静止画)として見られるか、「液体」(動画)として見られるか、そういう相違でもあります。
ちなみに「色即是空・空即是色」の般若心経では、固体的・実体のことを「色」といい、液体的・非実体のことを「空」といいます。

■東洋の「一」/西洋の「多」
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世界には、ある瞬間たまたま【雲】だった、たまたま【私】だった、という偶然しかなく、それらはどれもふわりとした「一枚布」のどこかの端っこに、危なっかしく乗っかっていたに過ぎません。次の瞬間には、どこへ移ろってしまうかすら わかるものではありません。そういう実体の無さ、これが東洋の世界観でした。

そして、【雲】は【雨】になるだけでなく、【霧】にも【夜露】にも成り代わります。分子たちは、スキあらばいつも他の場所へ移動してやろう、と虎視眈々と“無常の準備”をしています。
ということは、世界には 様々な種類の分別された「個物」たち(雲、雨、土、・・)が用意されているのではなく、ただ「一枚布」の風呂敷の上で、分子が引っ越しをし続けているだけ。その一時的な分子の住み処、それが実体として僕たちに見えていることに過ぎないのです。
「永遠の実体」として見えているものは、どれもそんなふうに「瞬時の非実体」でしかありません。
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悲しいことに、この一瞬の“分子の住み処”に固執してしまう、これが僕たちの中にある西洋知です。だから、金銭にも出世にも名声にも固執するようになります。
この西洋知の歴史では、本来、分別されることなく「一」(一如)であった筈の「世界」にハサミが入れられ、「一」は「多」のハギレに分解されてゆきました。
それは自転車という「全体」を、スパナでどんどん分解していき、最終的にはギア・チェーン・ペダル・サドル・車輪・・・・といった「部分」の総和に還元させてしまう上図のような方法です。
或いは、「2」という「全体」が、「1+1」という「部分」の総和によって計算されてゆくという、残念ながら戦後欧米教育を受けてきた僕たちには、いかにも腑に落ちてしまう考え方です。ここでは、「1+1」はいつも「2」であって、それが「3」にも「10」にもなることなどありません。

このように、「世界」を「部分」の集積として分解・分析する思考のことを、機械論的還元主義と申します。これらが西洋の近代科学、数学、論理学、形而上学を支えてきたのです。
ですから、「東洋は一」「西洋は多」となります。

■相
西洋医学は人体を「多」として扱い、それを機械さながら複数の臓器の総和として捉えることで、その発展を手に入れました。が結果、複雑な合併症や神経症、そして深層心理などを扱う分野では、手に負えぬ限界が見えてしまっています。

その点 東洋医学は、人間を「相」として捉えてきました。「全体」は「部分」の総和ではなく、「全体の中に部分がある」「部分の中に全体がある」という眼差しです。
「相」とは、手相・人相の「相」であって、“手の平の文様”と“結婚運”、“顔のつくり”と“仕事運”を同じ地平に置こうという古代インド・古代中国に由来する思想です。
ですからそこでは、腰痛の治療を、腰という「個物」にシップして終わらせてしまう西洋医学のようなことは致しません。必ずそこに縁起してくる“他の部分”との関係をも見据えることが方法なのです。
“腰”という部分を引っ張れば、“顎”も“歯”も“目”もイモズル式にズルズル繋がっている、そんなふうに考えます。東洋には、人体とは「一枚布」であるという強い想いがありますから、そのイモのツルにハサミが入れられては、そもそもの“世界のありのまま”が見失われてしまいます。

【私】・【海】・【雲】・【雨】・・・、といった「個物」たちが、実は分別できぬ「一枚布」であったように、【腰】・【顎】・【歯】も、部位として遠いだけであって「一枚布」に変わりありません。
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西洋の機械論的還元主義が、左図の様に「世界」を上から下に向かって、どこまでも「多」に分解し尽くそうという【構築性】(ツリー構造)であったのに対し、東洋の相は『すべての部分がすべての部分と縁起する』という、切れ目のない「一」なる【重層性】(セミラチス構造)というモデルで示すことができます。
左図では、システムの1カ所の線が切断されれば作動しなくなる(デジタル)機械のようですが、右図では、多少の損傷があっても他の通路で接続が可能となる(代替作用)有機生命体のしなやかな(アナログ)システムのようでもあります。





さてこんな感じで、おおまかな準備体操ができてきました。いよいよ、次回からが本番の

建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則

のクライマックスとなります。


ということで、また。



建築家 前田紀貞
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