|
■Proxy 僕は、この20年ほど、建築関係の講演会などといったものには足を運ぶ機会が無かったものの、昨日、久し振りに「Proxy」の講演会を訪れることとなりました。 「Proxy」とは、米国コロンビア大学建築学科の学生であった、長谷川徹とMark Collinsの二人によって設立され、現在、ニューヨークを起点として設計・教育活動をしている若き建築家集団です。 コロンビア大学は、早い頃から、ペーパーレス=スタジオをその射程に入れつつ学生の教育をしてきました。しかし、Proxyが目指しているのは、ただCADやCGといった、ただ単にコンピューターを演出の道具として使った設計に終始するものではありません。 ※ペーパーレス=スタジオ 紙と鉛筆を使わない建築設計。つまりコンピューターによる設計を目指す教育の場 ここからの話は、「未来の建築」への大きな指針となるものなので、注意深く聞いて欲しいと思います。 ■設計図としてのDNA まず簡単に言えば、ヒトがDNAという「ヒトを作るプログラム」=「設計図」によって設計され、結果、それが形になっているのと同じように、「建築でも、その誕生を決定するDNAのようなプログラムが必要である」という考えがあります。 ![]() 生命体の「設計図」とは、御存じの通りDNAと呼ばれ、それは、A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)という4種類の塩基の【数】と【組み合わせの順番】というだけの、大変にシンプルな「ルール」によってできています。 上図は、DNAの概念図ですが、これを見ても、絵の中にはA・G・C・Tという4種類の塩基しか書かれておらず、それらの【数と順番】だけによって、生命体の「設計図」が書かれていることが一目瞭然と思います。 わかりやすく言えば、同じA・G・C・Tという4種類の塩基からできていても、 ・ACGATCGGTACCGTGTCGAATCTCTAG と ・CCGATCGTAG では、その【数】も【順番】も違います。 この“違い”によって、生命体の種類が決定されてゆくのです。 もう少し言えば、A・G・C・Tの配列の【数と順番】(=設計図)が、それぞれに異なっていることに応じて、結果としての生命体の姿は、ゴキブリにもニワトリにもシマウマにもサルにもヒトにもなってゆく、という訳です。 ![]() また、同じシマウマであっても、その「シマの模様」が、一頭一頭変わっている理由は、A・G・C・T 4つの塩基の【数と順番】が一頭一頭、微妙に異なっていることによります。 一頭一頭の「設計図」の中では、「ここは黒く塗りなさい」・「ここは白く塗りなさい」という「設計図の指示」が異なっている、ということになるのです。 或いは、ヒトであっても、4つの塩基配列の【数と順番】の違いによって、髪や目の色が、茶色になったり黒になったりと、変化してゆきます。 自然という神様は、A・G・C・Tという4種類の塩基の【数と順番】という、たったこれだけの至ってシンプルな「設計図」によって、地球上の数百万種を越える複雑な生命体を設計し分けてしまうことができたのです。 これだけ複雑なものが、こんなシンプルなルールで?と驚きますね。 ■新しい建築の「設計図」 さて、DNAがそういった生命体の「設計図」だということは、承知していただけたかと思いますが、建築だって同じように「設計図」を作り、それを現実のものとして作り上げる作業であることには変わりません。 であれば、生命の「設計図」と同じように、建築でもとてもシンプルな「ルール」によって建築を誕生させることはできないだろうか?というのが、“未来の建築”へのひとつの大きな提案であり問いかけとなります。 ここでの「設計図」とは、今考え得るような「設計図」とは全く違った概念でのそれです。DNAが生命体をプログラムし得たような意味で、そんな意味で建築をプログラムするような「設計図」のことです。 「ルール」という「設計図」によって祝福され、ある意味必然的なものとして生まれてくる生命体と同じようなものとして、建築の誕生に立ち会おうとする、そういった考え方です。 僕がずっと口にしている「ルール」ということの究極の延長線上に、Proxyをはじめ、世界でも僅か20人程の建築家だけが関わることのできる「建築の遺伝子」という最先端の潮流が横たわっています。 それは、「建築作家として、その場限りで気まぐれな 趣向や好みによった空間や形やデザインの決定」という独善的な創作の域を越えた、もっと大きな自然の摂理にも近づいた「ルール」こそが、建築を誕生させる基盤になる、そんな意味合いであります。 強烈に根源的な意味での、建築の「ルール」を模索する、ということでもあります。 では、何故それが、ペーパーレスのコンピューターによって接近可能なのか?というのが大きな疑問でもありましょう。 それについて、以下、説明してみます。 ■複雑な自然現象のシミュレーション ![]() 例えば、煙の立ち上る姿という自然現象はとても複雑なものです。 あの常に変化してゆく あまりに複雑で捉えどころのないフォルムのデザインを決定しているものは何なのでしょうか? あんな複雑な空間やかたちに、どうしたら建築家が近づくことができるのか? 今までの近代建築の系譜では、せいぜい「煙っぽいかたち」をデザインすることに留まっていました。つまり、“煙のかたちの雰囲気を真似る”ということであります。 “煙っぽいかたち”“煙の真似”という言い方でもいいでしょう。 しかし、これから述べるような方法は、それとは一線を画しています。 つまり、「現実の自然現象の中で、煙というものがどのように生成してくるのか?」という、自然界での生の誕生のシステム・過程を解明しようということです。 それもコンピューター上で。 煙が誕生してくるには、煙を作る沢山の小さな粒子ごとの大きさ、数、粘り気、温度、重力、風向、・・・・・その他沢山の要素の、決定されなければいけない状態(数値)をしっかりと決めてやって初めて、結果、あのような複雑な形が目に見えてくるものとなります。 ちなみに、それらをコンピューター上で、細かに細かに決定してやったものが、以下のURLの動画にて見ることができます。 http://processing.org/learning/topics/smokeparticlesystem.html ![]() これは、コンピューター上で、煙が誕生してくる際の「設計図」を書き、それによって、煙が誕生してくるシステム・過程を計算し再現前させたものです。 これは、コンピューター言語によって記述されたアルゴリズムによって成されることであります。 見ておわかりの通り、これらは、“煙っぽいかたち”を雰囲気で真似るのではなく、煙という現象を解剖学的に分解して行くことで、そのひとつひとつの要素が持っている性格を、コンピューター上で数値的に決めていってやる、という手順によってできるものであります。 言ってみれば、「見た目の煙の形のルール」ではなく、「煙の形を作り出している法則に関してのルール」ということになります。 或いは、煙を作り出している、自然の「背後」に潜む法則(ルール)、というふうに考えてもらってもいいと思います。 ![]() 煙のような複雑な事象を分析できる、ということは、「炎」や「雲」や「気象」といった複雑系でも、同じことが可能ということになります。 そしてそこから、もっと複雑な自然現象や有機生命体の「ルール」へ向かおうとします。 ■設計とはコンピューター言語を書くことである こうして、コンピューター言語による「煙の設計図」が書かれることによって、煙というものの裏にある誕生過程とその結果としての最終的なかたちが、正確に記述されるようになります。 ここでの「煙の設計図」というものを具体的にお見せしますと、以下、合計123行に渡る「コンピューター言語」となります。 ![]() これこそが、「煙の設計図」です。 それは、コンピューター上でのシミュレーションによってのみ再生可能な、ひとつのリアルであります。 たった123行のコンピューター言語によるプログラムという「ルール」設定。これだけで、あれだけ複雑だと思われていた自然(煙)の姿を再現することが可能となります。 ここではもう、煙は雰囲気としての形ではなく、煙に限りなく近づくものとして捉えられています。というよりも、「煙の誕生の足跡」を、そのまま再現した、ということでもあります。 こうした方向とは、(CGなどで)建築空間をコンピューターによって、シミュレーションしてみる、という程度のことなのではなく、建築空間が誕生してくる際の初期コンセプトの根拠が、自然の法則のような普遍的なものによって構想される、ということに他なりません。 大袈裟に言えば、自然物が発生してくるのと同じような過程を通して、建築も有機生命体のようにして発生してくるプロセスに着目する、ということでもあります。 ここからその後、どのような過程にて建築になってゆくのか? については、ProxyのHPで確かめてみてください。 Proxy http://proxyarch.com/ こう考えてくると、建築の設計という作業は、いずれそう遠くない将来に、「コンピューター言語を書く」ということに還元されることになるであろう、ということも間違いでないことになります。 恐らく、今後の建築家としての空間・デザイン発想の初期の段階(今でいうスケッチ)での才能は、「コンピューター言語を書く能力」ということとパラレルになってくる筈です。 近い将来、この能力を欠いている者は、初期段階(スケッチ)での「発想」は、凡庸な経験と習慣にまみれた“手”だけによる“どんぐりの背較べ”、すなわち、どこの 誰にでもできるような凡庸なものになってしまう危険があります。 ですから、真正面から建築文化を豊かにしようとする建築家を志そうというならば、人としての精進、設計方法や施工、法規や英語の勉強をしたりするのと同じように、「コンピューター言語によって、世界の成り立ちを記述する方法」を勉強して行くことが不可欠となります。 これが、未来の建築へのひとつの重要な準備であります。 つまり、“建築を設計するという行為”は、今後、頭の中にイメージされた空間を紙の上にトレースすることから、「コンピューターによってプログラムされた自然の摂理が紡ぎ出す、人間にも予想不能な偶然に己を委ねる」ということへシフトしていくであろうということです。 これはそのまま、「自然に己を委ねる」ということと理解してしまっても間違いありません。 過去の建築家たちは、黄金比(自然の各所に見られる不思議な比率)をずっと大切にしてきました。或いは、日本の職人たちは、素材というものの持つ性質の声に謙虚に従おうとしてきました。 これらいずれも、己の拙いエゴというものを殺し、己を何か“より大きなもの”に委ねてみようという姿勢なのです。 ですから、プログラミングによるアルゴリズムへの接近とは、実は、その本質の部分では、これまでと何かが特別に変わる訳ではないのです。いずれも、“己を殺す”という視線には変わりありませんん。 しかし、創作の際の表層の見え方は、全く別物になった、と思われるかもしれません。 過去には、そうした己の殺し方を、直感や経験のみに求めたのですが、これからのある種の創作は、そこに「ルール」を探そうとするのです。 そうすると、この方向の創作は、「創る」というより「選択する」という言い方の方がしっくり来るかもしれません。無限にある可能性から、勘と経験によって1つに絞り込むのではなくて、それらの可能性をコンピューターによって一旦すべて眼に見えるようにした後で、その中の「最適解」を「選択する」という方法です。 マルセル=デュシュシャンは、「芸術とは選ぶことだ」と言っていましたが、意味合いとしては遠いものではありません。 つまり、「神としての芸術」「霊性としての芸術」のようなものから、自然をもっと身近で日常的なものとして、何とか人間の側の近くに引き寄せられないだろうか、という試行錯誤なのでもあります。創作がある特別な才能を持った人たちだけの手にしか入らなかったものを、もっと門戸を開いて、誰にでも手にできるようにする、という意味でもあるでしょう。 ちなみに、Proxyも推奨するコンピューター言語の作成ソフト(Processing)を紹介しておきますが、彼等は、これらのコンピューター言語は、今の時代の小学生なら誰でもがすぐに習得できるものである、と断言します。 Processing http://processing.org/ つまり、芸術は、もっともっと身近で日常的なものになってゆきます。 ただ、最後にそれでもひとつだけ付け加えておきたいことは、“それでも残る作家性(霊性)”といったものについてです。 これについては、このブログの「アルゴリズム建築と作家性」のページを参照していただければ理解していただけるかと思います。。 http://norisada.at.webry.info/200803/article_1.html ■コンピューターと自然 さて、「ゆらぎ」という言葉は、既に、商業的にもあまりに手垢の付いてしまったものになってしまいましたが、とても大切な概念のひとつであることには変わりありません。 つまり、自然には、人工物に無いような複雑なシステムが潜んでいるということ、それが「ゆらぎ」ということであります。 ![]() 上左のような線の記述は、まさに人工物の有様ですね。機械が等間隔に作成したような正確で緻密な記載です。 しかし、自然とは、いつもこんなふうに堅く律儀な振る舞いをする訳ではありません。前述の煙や炎や雲や気象の風景を見れば、すぐにわかることと思います。 これらの複雑なシステムの背後にも「ルール」や「根拠」があることは、多少、理解していただけたものと思います。 そして、その複雑なシステムの背後にある現象のひとつに、「ゆらぎ」という概念があります。 試しに、上左の人工的な“線割り”に「ゆらぎ」を適用すると、上右のような一見ランダムな間隔配置となります。 上左と上右を見比べた時、パッと見ただけで、どういう訳か“ホッとする”のは上右の方ではないでしょうか? 現に、竹林の林立した垂直線は、どこか上右のような“まばら”な間隔であります。 ![]() さて、昨日のProxyの講演の中、長谷川徹氏の言葉で、大変印象的なものがありました。 「コンピューター言語の中にこそ、自然は見えてくる」 というものです。 コンピューターを“図面を書く道具”・“デザインをする道具”・“インターネットを見る道具”・“ワープロの道具”としてくらいにしか扱っていないうちには見えてくることはなかった「自然界のシミュレーション」こそ、この不思議なエレクトロニクスの箱の中に潜在的な可能性として埋蔵詰されているのです。 これを堀り起こすことができるか否かは、その人にかかっています。 そして何より、その可能性を大胆にも建築に忍び込ませてしまおう、という新しい視点こそが、未来の建築に大きな一歩を踏み出させることになるに違いありません。 ■近代建築 vs 現代建築(機械 vs エレクトロニクス、肉体 vs 意識) また、もうひとつ大切なことがあります。 それは、 「私たち人間じたいが有機生命体である」 という当たり前のような事実です。 そんな柔らかな「有機生命体」である私たちを包み込む箱である建築の方の側が、昔の近代建築のような堅い「機械」をメタファーにしたまま、そんな旧態依然のままで本当に良いのか? それが問われねばなりません。 誤解を恐れずに言えば、 「有機生命体(人間)を包み込むもの(建築)は、有機生命体の論理で創られているべきではないのか?」 という言い方をしてしまえば分かり易いかもしれません。 本来野性の生育環境にあった生花を育てるのに、人工空調や人工滋養の下で、アンドロイドのように飼育していくことに、果たしてどれだけの意味があるのでしょうか? 同じことは、建築にも言えることと思います。 機械のような部品の集合体として機能一点張りで生産させられた【人工の建築】の中で、人工呼吸器を接続されたようにして生息し続けることと、ある有機生命体の「ルール」によって誕生を祝福された【自然の建築】との間にある溝は何なのか? 簡潔に言ってしまえば、「“人間”と“自然”は決して切り離すことはできない」ということです。 これは、「“建築”と“自然」という言い方でもいいです。 そういうとてもシンプルなことを言っているだけに過ぎません。 でもだからといってこのことを、「自然としての建築」=「木の暖かみ」などと、あまりに無邪気に短絡的になってしまっても困ります。そういった議論は、「男は特攻服、女はフリフリのレース服」といった紋切り型の決め付けとさしたる変わりはありません。 僕がここで言いたいことは、男・女としての人間としての性を誕生・決定させてくれるような、もっともっと深いところに横たわっている 誕生にまつわる「背後に潜むルール」(根拠)という次元での話なのです。 こんなふうに書くと、「建築や芸術を、そんなに難しく考えなくても・・・・」という声も聞こえてきそうですね。 ところが、実は全く逆でして、ここで僕が書いているような「根本」こそ、一番シンプルで、一番根本にあって欠かされてはならぬことなのです。 他のことは、練習問題程度にしか過ぎない、と言ってしまってもいいくらいです。 建築が、例え、金属やコンクリートやガラスで作られていようと、それが、確実に「自然」と通底する誕生の裏付け(=ルール)さえあるならば、建築は、どこまでも限りなく“人間的”である、ということになります。 現実の建築を表層の雰囲気(木は温かい/金属は冷たい、丸は温かい/角は冷たい)だけで判断していては、事の一番大切なところを見失ってしまいます。 世阿弥の言葉にもありますね。「氷ばかり艶なるはなし」と。 そういう視点での話です。 昔の【近代建築】は、「建築は住むための機械である」と言われたとおり、「機械」がそのメタファーとされていました。 それに続く【現代建築】というものは、未だ誰によっても定義されないままにありますが、これのメタファーは「エレクトロニクス」だと言われています。 「機械」に対しての「エレクトロニクス」。 言葉を変えればそれは、「肉体」(体)に対する「意識」(脳)だと言うことも可能です。 また、近代建築が、「機械」や「肉体」といった、“部分”の集積が“全体”になるような【構築性】から脱した後は、「エレクトロニクス」とか「意識」といった、単に“部分”が集積しても“全体”にはならないような、或いは、「“部分”の中にこそ“全体”がある」ような不思議なシステムにこそヒントがあるのです。 これを東洋では【相】と呼びます。 【構築性】に対しての【相】。 近代建築 ―――――――― 現代建築 機械 ―――――――― エレクトロニクス 肉体 ―――――――― 意識(脳) 構築 ―――――――― 相 人工 ―――――――― 自然 これらは、建築史に関する教科書的なおさらいではありますが、こんな意味からも、ここから模索されるべき未来の建築とは「自然」、特に、有機生命体の「ルール」から離れてしまうことは、決して許されることではなくなってきているのです。 注意されなければならないことは、このことは、ただ“自然っぽい”とか“自然素材”とか“エコロジー”といった言葉とは無縁だということです。 あまり好きな言葉ではありませんが、誤解を恐れずに言えば、僕は建築に、最後まで「人間的」であって欲しいと希望します。 でも、「それにはどうしてコンピューターなの?」ということに、それでも尚、疑問が残っているかもしれませんね。 ただ、少し冷静に考えてみればすぐにわかることですが、法隆寺の五重塔や奈良の大仏殿を考えてみれば、あれらはその当時としては、究極のハイパーテクノロジーであった、ということが忘れられてはいけません。 あのスケール、あの架構。 その当時、あれらの建築物の構想は、ひどく「人間的でない」と思われていた訳です。でも今となっては、そんなことは微塵も感じない訳でして・・・。 事は、時代と共にすぐに変わってしまい“慣れ”に染まります。その当時の「出だしの違和感」は、すぐに日常と化してしまいます。 エッフェル塔やポンピドーセンターが竣工した当時、それらに対する「あまりに醜悪である!!」というパリ市民の批判は壮絶なものでありましたが、今は、いずれも、立派なパリの観光名所になってしまっていますよね。 それが現実です。しかも、両者とも偽りが慣れになった訳ではありません。 一番宜しくないのは、その「出だしの違和感」について、深く考えることをせず、ただただ手持ちの駒に無いが故、嫌悪するあまり、次の時代を切り開く新しい可能性の芽をみすみす摘んでしまうことであります。 見たことない 聞いたことない芽に眼差しを向けることに臆病になってしまうという保守に走る姿勢は、次の時代にバトンを渡そうという役割からすれば、大きな損失である、ということです。 その時代が次の時代に向かって提案しておかなければならない、一見“苦い薬”を、確かな裏付けある眼で「良し!」と判断できる、そういった公平な眼差しを持てる知性こそ、未来の私たちの国を豊かに育て上げて行くことができるとても大きな財産なのです。 このことは、決して忘れられてはならないことです。 それは、今の時代を生きる者たちが勇気を持ち、無批判な慣習から脱することによって、大きく寛容な目を持てるか、という我々の器量にかかっていることになります。 ■若き学生 昨日の講演の主であったProxyの長谷川徹氏は、僕の10年程前の法政大学建築学科の担当学生でありました。 一言断っておきたいのですが、僕は、自分の学生だったからといって、こうした場で紹介する、というようなことは一切ありません。その人間に見るもの掬い取れるものがあるからこそ、何かに残しておきたいと思う、それだけのことであります。 といいますのは、彼は、口先だけでなく、正真正銘、触ると火傷しそうな野武士のような学生でありました。 当時も今と同じように、学生たちは事務所のスタッフたちと混ぜこぜになって、実務作業をしたり、現場で働いたり、展覧会の物を制作したり、酒や波乗りや四方山話、その他沢山のことで毎日建築漬けでドロドロになっていました。 そんな中でもただひとつ、僕が彼について鮮明に記憶していることは、ある年の瀬、普通の柔な学生では二度と立ち直れぬほどの酷評を、彼に投げかけたことであります。 当時、留学したての彼は、どこか欧米(コロンビア大学)に土下座し、“己”を失いかけ、言われたことだけを卒なく優秀にやっているように見えたのです。 そこに無性に腹が立ちました。 そんなことであれば、海外留学など百害あって一利なし、であります。留学するということは、我が国へその財産を国益として持ち帰るという前提でありましょう。留学というものを、己の私利私欲や名誉欲だけで考えているのでは、永遠に欧米に土下座し続けることになってしまいます。 そんなふうに己と日本を安売りするくらいであれば、今すぐ建築など辞めてしまえ、ということを大変に厳しい口調にて伝えた記憶があります。 しかし、彼の非凡は、それほど長くない時間の後、その“落とし前”をきっちり付けて、僕の前にずっしりとした成果を携え戻ってきたことでありました。 酷評前と後では、人格が違ったように、創られた建築の質は一変しておりました。 ええ男だなあ・・・・と、つくづく感じた記憶があります。 現在、彼とは共同で、「I remember you」をはじめ、幾つかの建築の実作プロジェクトに携わっています。 http://www.flickr.com/photos/nmaedaatelier/sets/72157622477231441/detail/ つい最近まで学生であった一人の男が、気付いてみたらいつの間にか、とても大きな志と共に、壮絶に建築を愛し大切にしてくれていた。 彼には、いまだちっぽけながらも、未来の建築というバカでかいものに本気で噛みついて行こうとする激しい気性が垣間見られます。しかし同時に、微力を決して諦めぬ たいそう清々しい、本来若者にあるべき姿を見ることもできるように感じます。 そう思うと、こうした若者たちが、これからの日本の建築界を一身に背負って行ってくれることを、全身で願って止まない気持ちで一杯になります。 同時に、かく言う僕自身の気迫の質も試されるということになる訳です。 「では、そういう前田はどこまで できまっか?」と挑戦状を突きつけられているようなものです。 そのピリピリした緊張感がなんとも言えず心地よく感じられるのであります。そんな瞬間こそ、生きていることの醍醐味を感じられる、とも思います。 ただ、彼に、何か百万人に一人くらいの特別な才能が生来備わっていたと思っている訳ではありません。 でももし、彼と凡庸との間に、何かしら違うところがあったとすれば、それは、「一旦己が手を染めたことから決して撤退せぬ忍耐力」、そして「言い訳せぬ己への厳しさ」という二つの宝物を大切にし続けているという、その僅かな点だけに尽きると思います。 いつも上達の秘訣はシンプルです。 昨日は、彼が広い講演会場の壇上に登って、貫禄さえ感じる講演をする姿を、一等前の席から目の当たりにして、なんだかとても微笑ましく、そして心温まる気持ちがしました。 と同時に、己の襟を正す良い機会でもありました。 若いにも関わらずの脱落や諦めや言い訳の場面に、ややもすると慣れかけてしまいそうな中、それでもこういった本物の志ある者が、僅かでも排出されていることに、これ以上感じることのできぬ喜びと救いを感じるのであります。 志は、士(さむらい)の心と書きます。 士(さむらい)は、生涯、この世一切のものを惜しむことをしませんでした。たったひとつ「名」だけを除いては。 ただ、ここでの「名」とは、「野心」としての「名」ではありません。 「野心」などというものは、一代限りのものに過ぎませんが、本来の「名」は、己の志を受け継いでくれる後進たち(未来)を持つことが許される、という点でその質を異にします。 同時にそれは、両親への孝(過去)、といった時の経る流れの中でこそ光り輝くものです。 志とは、「今日の自分さえ いい思いができればよい」といった小粒でなく、もっともっと大きな流れの器の中にあるのです。 前田紀貞 |
| << 前記事(2008/12/19) | トップへ | 後記事(2009/02/09)>> |