前田紀貞の建築ブログ

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help リーダーに追加 RSS 「私が創った」なんて言わせない!! (日大建築学科 3年生 作品)

<<   作成日時 : 2008/11/20 16:13   >>

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先日、事務所の片付けをしていたら、僕が大学を出たばかりの頃 会社(大成建設設計部)で担当していたプロジェクトでのボロボロのスケッチが出てきました。
いかにも稚拙なスケッチであり、可笑しくなり懐かしくなり眺めておりましたが、ふと見るとその端っこに「これはルールになるのか?」との書き殴りのメモを見つけ、「ああ、なんかずっと同じことをやっているんだなあ・・・」と改めて感じた次第です。

僕は、建築を始めた時分から懲りずに、建築が誕生してくる際の“根拠”とか“指針”のようなものに意識的でありたいと思ってきました。
そしてそれを「ルール」と呼んできました。

「ルール」さえあれば、「どうしてこんな空間になったの?」と問われて、「はいそれは、こういう理由で」ときっちり答えられますが、それが無いと、「ええ・・なんとなく・・・」ということになってしまいます。

そんなことが自分の頭の中にあったのは、建築家が芸術家気取りで、何となく〜雰囲気に流され〜その日の気分で手の動くままに〜場当たり的に〜その場しのぎなやり方で〜思いつきのまま〜自分の片寄った経験の中からだけしか設計の回答を決定できないことに、どこか違和感を感じていたからであります。
建築でも数学と同じように、一本気で筋が通るようにしながら、創作が決定されて行って欲しい、そんな気持ちがありました。
僕の中には、「数学に見られるようなシステムの美しさ」にとても心惹かれるものがあった、という言い方でもいいかもしれません。


「こんな方法もいい あんな方法もいい」「君のやり方もいい 僕のやりかたもいい」「あれもいいが これもいい」・・・・。
こんな甘ったれた平等主義のようなものが持つ“曖昧さ”など、きっちりと整然と統一されてしまわないと、創作はただの雰囲気モノになり下がってしまう・・・・と感じていたことも確かです。或いは、「ルール」といった理路整然とした落とし処にこそ、建築という世界が誕生してくる理由と安らぎ、そして美なるものが宿っていると思っていたからかもしれません。



建築とは、生身の人間の“生の営み”の場です。
いわば、情や念のようなあれもこれもの“しっとりしたもの”たちを、一緒にして入れて置く箱のようなものです。ですからそこでは、“しっとりしたもの”たちが、ベトベトになって互いにへばりついてしまわないよう 注意深く保管しておく為に、といった意味で、乾いた「ルール」が必要となります。

それと反対の「ルール無用」の「好き放題し放題」「何でもあり」の箱の中では、“生の流れ”とか“人の気持ちの機微”などは、ベトベトに張り付いた混沌になってしまいます。すなわち、建築にいくばくかの秩序が計画されない限り、そんなとりとめもない状況になってしまうということなのです。
「ルール」とは、建築というものが包み込むものの性質が“湿ったもの”(混沌)だからこそ必要な“乾きの秩序”だ、ということになるのでしょう。



また、建築というものは、一人の建築家の狭い経験(たかだか70年)から導かれる“手の痕”とか“頭の回り具合”といった 【限定されたもの】から なんとなく産まれてきてしまってもよいようなものではなく、そんな狭い了見(自分)を超えてしまえる、より大きな「道理」のようなものに委ねられることではじめて、祝福されたものになることも間違い無いのです。
「ルール」に身を委ねると、不思議なことに、その「道理」の方で、より懐の広い答を用意してくれることなど往々にしてあります。つまり、「自分が作る」のではなく「ルールが作る」ということになります。



とは言うものの、同時に、“どんなものにも通用する絶対的なルール”など、建築には無いであろうことも承知しています。
そのようなものがもし在るとすれば、誰もがその「ルール」に従えばいいのですから。
僕は、そこまで脳天気でもないし狂信的でもありません。しかしだからといって、このことが「ルール無用」となる理由にはなりません。



さて、一本の樹木がしっかりと成長し、次の世代への種を宿す“花”を咲かせるには、まずはその「根」がしっかりと大切にされていなければなりません。同時に、その「根」を張らせてくれる「土壌」へも配慮する必要があります。
「ルール」とは、この「土壌」であり「根」に当たるもののことですが、これがあってはじめて、“その上の部分(枝・花)”が成長してゆける、という位置にそれはあります。
物事には、そういった“順番”があるにもかかわらず、一方では、その筋道が無いかの如く、“根無し”のまま、最初から花という表層の成果品だけをデザインしようとするようなことも、往々にして行われています。
この「最初から成果品だけをデザインしてしまう態度」、これこそが、たかだか数十年の建築家の手や頭を過信する“自分主義”というエゴイスムであり、それは、常に「自分」の技を誇ります。
こういった創作に於いては、いつも「自分」が頂点にあると思われています。

そんな限定された“自分主義”なるエゴイスムを抜け出るには、もっともっと大きな「道理」、すなわち、「自分」などよりずっと大きな「自然」の「摂理」に身を委ねてみることが、それを回避するひとつの方法であります。。
それは、悠久の時間の中、自然が築き上げてきたシステムであり、そういうものにこそ、未だ見ぬ世界の美というものが潜んでいると確信しています。


このことは言ってみれば、日本古来の墨絵や書道が、「自分の創作意欲」といった“脂っこい欲望”を超えて、「無私」(私を捨てること)に至ろうとしたこととパラレルです。
※You Tube画像:墨絵   
http://jp.youtube.com/watch?v=ABXMjQTFdhM&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=z4-C2WxBMF8&feature=related

墨が引き起こす予測不能な“事件”である、撥ね(ハネ)や掠れ(カスレ)や滲み(ニジミ)、といった「偶然」の“ゆらぎ”のようなものには、決して「自分」の作為などからは出てきようのない奥深さとダイナミズムと世界観があります。
それは、「自分」を越え出たものに身を任せ、身を委ねること。これです。
創作には、そういった「偶然」の“事件”すらも味方に付けてしまうほどの器量がないといけません。
ですから、同じように建築空間にも、こんな撥ね(ハネ)や掠れ(カスレ)や滲み(ニジミ)、といった“事件”を、しっかりと用意しておいてやる、ということになりるのです。


古来の日本では、そういった「偶然」は、悪いことであるどころか、それは自然(じねん)と呼ばれ、とても大切に扱われてきました。(“ちっぽけな自分”の意志を超えた自然(しぜん)の摂理の中の宇宙、というような意味)
そういうものにこそ、「自分」という言葉にまつわる「作為の独善」を超える何かがある、としてきたのが日本の伝統でもあります。
「自分」などというものは、常に、その短い経験と偏った環境の中で、“悪しき(狭い)必然”にしか染まっていない。しかし、自然なるものの中には、もっともっと“懐の深い偶然”がある、ということであります。
柔の道のように、“自分の力”によって相手を攻撃するのではなく、相手からもらい受けた力を、そのまま相手を倒す力に「変換」してしまえるような術。


そして大切なのは、その自然の中にこそ、自分と他者が共有できる何かしらの“場”が顔を出すことになる、ということです。
これこそが、対話(ダイアローグ)であります。この意味で、自分(=必然)は独白(モノローグ)ですが、自然(=偶然)は対話(ダイアローグ)ということになります。
尚、この対話(ダイアローグ)のことを、茶道や華道では「出会い」と申しました。
例えば、以下の草月流の言葉がわかりやすいでしょう。

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(勅使河原蒼風)
「すべては出会いである。その偶然の出会いを必然にするのがいけばなである。花はまた同じものがめぐってこないということ。人間もふたたび同じ状態では花に逢えないということ。しかし、その無常のなかにどうしても結ばれなければならぬものがある、というのがいけばなである。」

(勅使河原宏)
「それでは偶然でないものはどこにあるのだろう。実に、人生のあらゆる場面、偶然以外に無いと思う。だから偶然というものを不純とか、不完全なものと考えてはいけない。全ては偶然であった材料をどこまで自分のものにしていくかという問題である。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

我々のこの世界には、いつも律儀に決定される必然の根拠などなく、すべてが無常であり偶然である。
しかし尚、その偶然という無常の中で、「それでも出会われなければならぬ何かがある」 そういった立ち位置、これが「自然というルールに自分を委ねる」という意味です。



今から創作を始めようとする人たちに一番欠けているのが、この視点です。
そもそも必然的な道理など、本来は人間などが決定できるものではない、ということ。このことが忘れられているのです。

では、人間でなければ誰が決定するのか?
繰り返しますが、それこそが、「出会い」という“偶然”であり、それが「自然」の中にあります。“偶然”与えられ祝福された「出会い」の中、それが私達にとって必然になってくるまで、とことんそいつに張ってみる。
これが「自分」のできることであります。

ですから、そこでの「自分」なんて、たかが黒子に過ぎないのです。黒子は出しゃばり過ぎてはいけません。
声高に物言わずしてそっと偶然を支え続けてやればいいだけなのです。
「小さい自分」「限定された自分」を知ること。それに謙虚になり、偶然を尊ぶこと。
物造りとはそんなことです。



ただここでひとつ大切なことは、「ルールに徹すること」と「ルールに狂信的になってしまうこと」は、全く別である、ということが知られなければなりません。

いかに「ルール」が大切だとはいえ、「ルールに狂信的」になってしまえば、「ルール」という“乾いたもの”を作ること それだけが目的となってしまいます。この時、この狂った“乾燥力”は、本来の建築の性質である“生の流れ”とか“意識”といった“しっとりしたもの”すべての湿り気を無くして、カラカラに干からびさせ 見えなくしてしまいます。
これでは本末転倒です。

そもそも、人間の“意識”とか“生の流れ”といった“しっとりしたもの”、そんな「割り切れぬもの」、これを生(なま)で手に取って記述するのが困難であるからこそ発生してきた補助線こそが、“乾いた道具”である「ルール」であった筈なのですが、その“乾き”を目指すことだけが狂信的な目的になってしまった時、それは本来の役割を失うどころか、かえって害になるよう働いてしまいます。
土壌や根はあくまで花を作り上げる為の礎であるように、「ルール」はあくまで黒子であって、間違っても「黒い自分」というものを主張するべきではありません。

つまり、「ルールに徹すること」は「狂信的になる」その直前の限界位置で寸止めされないといけない、ということになります。
遙か届かない位置で停止してしまってもいけない、しかし本当にそれに触れてしまってもいけない。
最終地点の近傍で、最後の目的に向かって常に近づき続けるようなイメージかもしれません。


物事というものは、周りから相当“狂信的”だと思われているようでも、まだまだ「徹する」には至らぬ、というのが場面の常です。
つまり、皆、「徹している“つもり”」であり「創作“ごっこ”」をしているだけであります。こんな状態がおおかたであります。
しかし、本当に徹してしまった人が、更にそのまま方向修正をしないでそのままでいたとした時、今度は逆に、当初の純粋な意志は、逆方向に働くようになってしまう。すなわち、こちらに向かって牙を剥くようになってくるのです。
「ルール」とか「規則」とは、そうした両刃の剣であることも、徹した人には気付かないといけません。





さて、話はいつも長くなりますが、今回は日本大学 理工学部建築学科の3年生の課題(湘南海岸に建つ芸術家村)の紹介です。

上で話したような
「“自然からもらったルール”で建築空間を作る」
という課題で設定をしてみました。

建築を創る時、「自分」が創るのではなく、自然にあるような「ルール」を設定してみることで、如何にして“生の情景・風景”が表出してくるのだろうか、そういった点で見ていただければと思います。

くどいようですが、これらの作品には、「自分がデザインした」という「自分」は無く、すべて自然のルールによって建築が創られてゆきます。
実際の模型は、1m×3mという特大サイズです!(しかも、模型製作期間はなんと2週間!!)

※氏名の下の数字は、今回のルール設定の手順です。
紙面の関係上、精密な説明をはしょっているので、非常にわかりにくいと思いますから、読み飛ばしていただいて結構です。
(氏名 五十音順)





■池上晃司 案
1:江ノ島をアイコンとして使用する
2:その航空写真を解像度操作・ガウス分布・ボロノイ図などによって変換する
3:島の人工物と自然植生の関係をグラデーション化し、諸室プログラムとその高さに割り当てる
4:それらをトポロジカルに敷地に適合させてゆく

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■新城雄史 案
1:片瀬海岸の敷地で波の音を録音する
2:それをデジタルデータとして楽譜に落とす
3:音符の位置関係を立面と断面に変換する
4:音符の長さ(2、4,8,16分音符)を平面に変換する

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■高橋雄也 案
1:無理数(円周率3.14)を表として配列する
2:同じ数字ごとを連結していった領域をそのまま内部空間の領域とする
3:数字の値を立面・断面の高さに変換する

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■田中麻未也 案
1:フィボナッチ数列によって、X軸Y軸方向に並立する壁の間隔を決定する
2:スケールを3つに分割し、各々のスケール(SML)ごとに諸室のプログラムを当てはめてゆく
3:そこに内部空間と外部空間を設定する

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■田中里佳 案
1:月の満ち欠けの変化を諸室の領域面積として設定する
2:潮の干潮満潮時間によって、円形諸室に方向を設定する
3:諸室どうしの回転角と配置を決定し、接点どうしで諸室を接続する

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■中村隆志 案

1:片瀬海岸の敷地前で波の連続写真を撮影する
2:撮影した写真の基準線からの上下を断面形状に当てはめる
3:横波を縦波に変換したフォルムを平面形状に置き換える

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■福島慶一郎 案
1:楽器の周波数ごとの配列を決定し、それを平面形状に置き換える
2:渚にまつわる曲を任意に選択し、その曲に使用されている周波数の頻度を計算する
3:その頻度の度合いを断面に置き換える
4:調和する周波数としにくい周波数の関係を平面に置き換える

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■横山勇貴 案
1:片瀬海岸の砂を構成する石英・長石の結晶構造を決定する
2:その分子配列の中で、結合力の高い領域を抽出する
3:それを人の集まる内部空間とし、それ以外を外構とする

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